近年、「触法障がい者」の問題が取り上げられるようになった。
長崎から始まった定着支援センターは各都道府県に設置され、刑務所から出てくる話もさることながら、その入口である、障害当事者が関与する裁判や逮捕拘留の問題等々の課題も取り上げられるようになってきた。
本人が犯してしまった過ちを本人のみの責任とせず、周囲の支援の不足故に起こっている事柄として取り上げられることは歓迎されることと思う。
かく言うたこの木も4年前からこの問題に取り組まざるをえない状況が生まれている。
いや、それ以前から小さな地域でのトラブルは昔も今も常にあり、本人のみの責任とせずその人の周囲にいる者として支援の不十分さを常に意識しつつ事柄と向き合ってきた。
そんなたこの木や多摩の取り組みが、ここ最近注目されているらしく各方面からこの件にまつわる話が集まり、又関連する集まりに声をかけたれたりする。
4年前、兎にも角にも目の前の現実を何とかするために動いていた時は、
「難しい問題ですね〜」と相手にもしなかった人たちが、今声をかけてくれる。
それは、時代の変化として歓迎すべきことだと思わなくもない。
でも、何かが違う。
たこの木は決して専門家集団ではない。
只々、目の前にいる人達と付き合い続けていくことだけを願い、
そこに生まれる様々な課題を担ってきた。
「触法障がい者」という文言が先にあるのではなく、
目の前にいる当事者が罪を犯してしまった。
そのことにどう私たちは向き合うべきなのか?を考えてきた。
それは、単に本人の問題としてではなく、常に私たちは私たちの側が問われるものと思っている。
そして、それはとてもとても大変なことで、
だから、何かすごい取り組みをしていると言うよりも、只々目の前にある現実から逃げずにやり続けるしかないと言う取り組み方でここまでかろうじてやってきたという感じ。
地域で活動する。地域で暮らすものとして障がい当事者が地域に戻ってこれない現実は何とかしたい、自らの経験も提供しつつ、私たち自身もこの先の支援を考えて行きたいと願う。
そんな私たちが、出向いて行った先で話し合われていることは・・・
いわゆる専門家と呼ばれる人たちであったり、
様々な地位や立場のある方たちばかり。
それぞれの立場で懸命に真摯に担われていることはわかる。
でも、そういう人たちが集う場に同席していると、とても居心地が悪い。
自分が何の後ろ盾も何の専門性もないことで居心地が悪いわけではない。
それよりも、
そういう人たちが懸命に考えれば考えるほど、
その話に地域の人たちは関心を寄せるのだろうか?
自分たちが持つものはずらさず、
地域が変わることを専門的見地から考え、
自分にない専門性を他の専門性に求めて検討を重ねる。
確かに素晴らしいものができるのだろうが、
それを地域の誰が聞くというのだろうか?
あの人・この場面をあれこれ思い浮かべつつ同席していると、
その距離の遠さに自分は何故ここにいるのだろうかと言う居心地の悪さを感じる。
自分にたくさんの時間とお金と余裕があれば、
そうそうたるメンバーの人たちの中にいてそういう人たちと繋がることはとても有効だと思う。
でも、時間もお金も余裕もない中で、現場で必死になって当事者を支えている人たちとの遣り取りをする時間さえ端折らなければならない現実の中、なんとも心苦しいものを感じる。
これが、
専門性を高める場という事ならば、それはそれで良いと思う。
それならば、私が出かけて行く時はその専門性を必要とする時だから、
ぜひぜひ頑張って欲しいとも思う。
ただ、
「地域に戻す」「地域の受け入れ先」「地域の理解」などと求める。
そのために、地域で活動している私たちに声もかけてくれているということに持つ長てているのだろう。
その目的を前に、自分たちの取り組みはどのように地域に受け入れられるのか?
と言うそれぞれの立場から捉え返す中で、私たちも又自らを捉え返す機会に繋ががり、
その先に「連携」というものが見えてくるのではないかと思う。
私は、どうも黙って返ってこれない質で、
「転んだら石でも拾って起きる」質の私としては、
会の趣旨とはまるで関係のないところで、とにかくつながりを求めていく。
それと同様に、
理解不能の様々な事柄は地域にゴマンとあるでしょうが、
ぜひぜひ、現場の方に足を運んで自らの課題に活用願いたいと思う。
そして、
そういう中で人はつながり、
そのずっと先で、「地域に戻す」ではなく「地域に戻る」事が生まれてくるように思う。
ずっと先のことだが、今のままではたぶん「地域」にはつながらないと思った。