2013年07月02日

『障害支援区分への見直し(案)について〈ご意見募集〉』にぜひご意見を!!

標記の件について、
厚労省が「広く国民に意見」を求めています。


「広く国民に」と言っても、一義的に関わってくるのは総合支援法を利用する当事者たち。

でも、果たしてそうでしょうか?

ぜひ、皆さんの意見を厚労省に届けていただきたいと思います。

そこでその内容を見ると、
新旧対照表ではなく、「障害程度区分」⇒「障害支援区分」となっています。

あたかも、「総合的に支援」するための新たな認定方法のように思います。
しかし、
その定義を見れば、
「当該障害者等の心身の状態を総合的に示すもの」が
「障害者等の障害の多様な特性その他心身の状態に応じて必要とされる標準的な支援の度合を総合的に示すもの」と変えられているものの、
やはり、本人の状態のみに注目する医療モデルでしかありません。

たこの木は、
「障がい」を「関係性の壁」と捉え、
互いの関係の中に存在するものとして、当事者のみに不利益を集中されることに異を唱えてきました。

よって、
今回の改正が、真に当事者の暮らしを支援するものではなく、
コンピュータ−によって個人の能力を判断し、
それに見合った国庫負担金を地方自治体に給付するというものでしかありません。

「第一義的には当事者本人の事」と言いましたが、
「障がい」をどこまでも本人に起因するものとして捉える厚労省に対して、
「障がい」とは、私達自身の問題でもあることを是非、厚労省に伝えて欲しいと願います。

提出期限は、7月31日
提出方法〈書式あり)は、
@電子メールの場合
アドレス : shogaikubun@mhlw.go.jp
厚生労働省障害保健福祉部精神・障害保健課

A郵送の場合
住所 : 〒100-8916 東京都千代田区霞が関1−2−2
厚生労働省障害保健福祉部精神・障害保健課あて

BFAXの場合
FAX番号 : 03-3593-2008
厚生労働省障害保健福祉部精神・障害保健課あて

詳細はこちらへ




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2013年07月03日

女の子のおされ

こんにちは、西山です。

さすがにそう毎週は画伯の絵は届かないようです。残念。

久々に自力でブログを書かなければっ!



私のどうでも良い近況報告なんですが、最近髪型を変えましたノ

パーマをかけて、髪色は外側は黒、内側は赤のツートンにしてとっても気に入っているのです!


そんな感じで私はけっこう美容院にお金を費やすのが好きなのです。

髪型自由なところがこの仕事の気に入っているところでもあります。


そんな私が普段気になってる些細なことの一つに、女性の当事者のショートカット率が高すぎるんじゃないかということがあるのです。

どうでもいいといえばどうでもいいと思うんですが、そんな男の子のように定期的に切らなくてもいいのに。。。(´・ω・`)という気分になるんですよねぇ。


まぁショートカット楽だけどさぁ。

年齢の問題もあるんだろうけどさぁ。


だけーど、そんな毎回毎回髪切っちゃって良いの⁈とよく思います。


そうそう、つい最近の介助中の話なんですが、ある当事者宅に行ったら、別の介助者が忘れたのであろう可愛い髪留めがあったのですよ。
で、それを私に渡してくる。「それ私のじゃないですよー。」と言ってもその当事者はなんだか納得しない様子。
なので「○○さんつけてみれば?」とその当事者につけると本人自分で「かーいい(かわいい)」と言い出す笑

それで私も「かわいいかわいい」と言うと付けっぱなしで、自分で留めなおしたり、出かける時に「それ人のものなので置いていきましょうか」と声をかけるまで外さなかったりしたところを見ると、なんだかまんざらでもない感じ。


やっぱそういうの好きだなんだなぁ〜可愛いって言われたら付けたままにしたくなるよなぁ〜


誕生日にでもそういう可愛い髪留めあげようかしら

という気分(*´ω`)


なんかそういうのを提供できたらいいなぁとぼんやり思いましたとさ。

posted by takonoki at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | @西山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月05日

「わかってくれる人だけにわかってもらえればいい」ノート@

みんなにわかってほしいと思って書くのとわかってくれる人だけにわかってもらえればいいと思って書くのとではどちらが面白いか?

一概には答えられない。


学校の先生がみんなにわっかってもらいたいとおもってやる授業とわかる人だけにわかってもらえればいいとおもう授業ではどちらが面白いか?

一概には答えられない。



  本当に面白いことを書きたいと思えば自分にしかわからない事を書け・・吉本隆明



みんなにわかってもらえるなんて思わないほうがいい。

みんなにわかってもらえるなんて不可能だ。



だれになにをわかってもらいたいのか?



人は人との間を、多くの場合言葉で埋めようとする。

人は人との距離を、多くの場合言葉で測ろうとする。

人と人との距離を言葉によって距離を縮めたり広げようとしたりする。

しかしこれらが言葉では通用しないときがある。

言葉以外にも人と人との間を埋めたり、測ったり、縮めたり、広げたり、確かめ合ったりすることができるものはたくさんある。

絵、音、芸術、ダンス、さわる、離れる 、もしかしたら言葉以外のすべてのものも人と人との間を埋めたり、測ったり、縮めたり、広げたり、確かめ合ったりすることができるものだといってもいいかもしれない。

しかしこのブログでは言葉にこだわってみることにする。

「わかってくれる人だけにわかってもられえばいい」ということにもこだわり続けることにする。


どうにかしたいのに言葉ではどうすることもできないときがある。

あまりにもどうすることもできなくて怖くなるときがある。

恐れ 畏れ

なにをそんなに畏れているのだろう

人の心の闇

最近、「たましい」という言葉がよく頭に思い浮かぶ。

畏れおおい言葉だ。

あまり無闇やたらに使うべき言葉ではないように思う。

「共に生きる」系の人々にとっては「心のノート」などで悪名高き深層心理学者河合隼雄さんの本を読み返す。

河合隼雄著 「こころの処方箋」から ・心の支えがたましいの重荷になる・という章から一部を引用する。

  【 それでは、たましいとは何か。心でさえあるのかないのかわからないのだから、たましいはなおさ   らのことである。ここに椅子がある机があるというのと同じような意味で、「ある」わけではない。   しかし、心というものがあると仮定して話をする方が便利なように、それよりもう少し深く考える
   場合は、心の下(奥)にたましいがあると考えた方が便利なことが多い。
    たましいの特徴は矛盾に満ちている。人間の心はそのなかに矛盾が存在するのを嫌うので、たまし   いの方は矛盾をかかえこむのだ。たましいは極めて個別的であると共に、極めて普遍的である。】

 自分にしかわからないどころか自分にもわからないことを書こうとしているのかもしれない。でもそんなことは私にとっては日常茶飯事なことかもしれない。できることならつづけてみたい。 つづく
posted by takonoki at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | @横田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月06日

成年後見制度を見直す会 第3回公開学習会のお知らせ

第3回公開学習会
『親の立場から成年後見を考える』

親の思いを語る
Y.Iさん〈東京都港区在住)
仲井 眞由美さん(千葉県柏市在住)
コーディネーター
岡部 耕典さん〈早稲田大学)
 ※親・保佐人の立場から
日時:2013年7月20日(土〉14:00〜16:30(開場13:30)
場所:東京都障害者福祉会館 2階B1会議室
    東京都港区芝5−18−2 03−3455−6321
    ※JR田町駅から徒歩5分(三田口を出た大通りを右へ行って最初の三叉路の際です)
資料代:500円

成年後見制度を見直す会ニュース第3号(改).pdf←未定の方が決まりましたので改めて掲載します。

第2回学習会の私の講演録も載ってます。
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2013年07月09日

画伯便り

こんにちは、西山です。
暑い、暑いね暑いよ!


画伯から絵が届きましたよ。
_サザンオールスターズ  35周.jpg


タイムリーなサザンですね。復活おめでとうだ。



最近の私の近況ですが、さくらんぼ嫌いを克服しました(*´ω`)



というのも、先日ものすごくアットホームなレストランで、ランチタイムの客が私ともう一人で最後2人になった時に、

「これどうぞ^^」

とさくらんぼを出されたのですよ。1個2個とかじゃなくて7、8個器に盛って。


NOと言えない日本人の私は笑顔で「ありがとうございますー^^」と受け取ったのですよ、
内心まじかー…orzって思いながら。


まぁとりあえず食べざるを得なかったので食べてみると、


食べれる!

私さくらんぼ食べれるじゃん!



というわけで多分10数年ぶりにさくらんぼを口にしたのでした。

食べてよかった。


ちなみに私は数年前にも似たような経緯でなす嫌いを克服しました。


大人になって味覚は変わるね!


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2013年07月11日

「わかってくれる人だけにわかってもらえればいい」ノートA

「ずーとこのグループホームに住もうと思っている」という意味のことを当事者の会で彼ははなした。一言一句正確には覚えていないが「ずーと」という言葉ははっきり覚えている。あの時、彼のこの「ずーと」という言葉がとても重く心に響いたのは私だけではなかったと思う。少なくとも彼自身「ずーと」という言葉にいろんな思いを込めたと思う。自己選択?自己決定?そんなことをあの「ずーと」という言葉から私が連想したのは会が終わって何日かたった後だったけど、彼自身あの「ずーと」には自己選択、自己決定を経たうえで言っている重さ、力強さというようなものが醸し出されていた。それが本当に自己決定、自己選択なのかは別として・・・・・・・・。
 

 あの時の当事者の会の話題はグループホームに住みたいかとか自立生活についてとかどういうとこに住みたいかといったような話題とは無縁といっていいほど別の雰囲気に支配されていたので、彼が今のグループホームで暮らすようになった経緯を語りだしたのは唐突といえば唐突だったといえる。当事者の会での話題は常に唐突だといわれればそれはそうだというしかないのだが・・・・・・・・。
 

 私見といってしまえばそれまでだが、あの日の当事者の会は予想以上に当事者の積極的な提案や意見がでていた。参加者を増やすためにチラシを作って公民館においてもらおうという支援者からのアドバイスがあったわけでもなさそうな提案に当事者間での議論が成立していた。


 私を含む支援者たちはいつものように全くといっていいほど口をはさまなかったが、それは当事者の人たちから「監視されているみたいでいやなので支援者も意見を言ってほしい」と批判されることのうしろめたさ以上に私が少しでも口をはさめば今のこの当事者の人たちの自由な雰囲気をこわしかねないという気持ちがあったのでそれに関しては気が楽だった。やはり当事者の人たちの意見や振る舞いはいつもより少し違っていて、支援者の目なんてまるで気になっていない空気が時おりながれた。当事者の会らしからぬ気負いのない「俺は障がい者だから・・・・」とういうような発言に、知的障害は当事者によるものではなく関係性の問題とか、障害ではなく個性だなんて考えは少なくともその場ではまさに他人事の意見以外なにものでもなくもちろんそんなことをいう人は誰もいなかった。

 「俺は障がい者だから・・・・・」

さりげなくそして支援者をはばかることなく自由な発言だからこそリアルさを目の当たりにしてしまったのだろう。

 その直後だったと思う。いやその直前だったかもしれない。
「ずーと」の人が数人の当事者の人に非難の目をむけられたのは。非難の理由は彼がとある集まりで机の後片付けをしなかったとのこと。確かに彼は他の人たちにくらべ遠方にすんでいるので当事者の会でも早めに帰ることが多い。非難した人は軽い気持ちで新しい話題をふるくらいのつもりだったのかもしれないが、即座にその話題に乗り皮肉のこもった笑みをうかべた狡猾な数人の目が「ずーと」の彼に向けられた。
 
 当事者の会でしか私は会うことのない彼なのだがここ何か月か以前にくらべ元気がないことも気になっていた。そして何か月かいつも彼は非難をともないながらからかわれる役回りに陥ってしまうことも気になっていた。もはや私は監視されているみたいでいやな支援者になることしか思いつかなかった。そうしないと致命的になりかねない。実際これまでの当事者の会でこのような状況になって取り返しがつかなくなったことは何度もあった。できるかぎりイヤな雰囲気にならないよう振る舞って非難している人たちを非難した。そしてなんとか後片付けの話題を回避した。
 
 彼が今のグループホームに住むようになった経緯を語りだしたのはそれからだった。以前当事者の会で元気だったころの彼からいろんな話をきかせてもらっていた。だから「ずーとこのグループホームに住もうと思っている」の「ずーと」にはいろんな気持ちが詰まっているようにきこえた。嬉しくもあり、悲しくもあり、楽でもあり、苦しくもある「ずっと」だった。
 
 「ずーとこのグループホームに住もうと思っている」という彼の言葉にたいして誰もなにもいえなかった。おそらくだれもその言葉に対して全面的に肯定なんかしてないはずなのに。そしておそらくそこで何をいったとしても「俺は障がい者だから・・・・」に対してと同様無責任な他人事の言葉にしかならなかったと思う。
 
 重い言葉だったと思う。それでも当事者でない私はすぐに忘れてしまうのだが忘れないほうがいいと最近よく思う。
 
 日々の生活のなかで現実におこっている様々なできごとと、その時期 に読んでいる文学作品とを結び付けたり重ねたりして考えることは自然ななりゆきだと思う。
 
 あの当事者の会があったころ私はカズオ・イシグロ(日系イギリス人)が書いた小説「わたしを離さないで(原題はNever let Me Go)」を読んでいた。臓器移植をするためのクローン人間がクローン人間用の施設で育ち大人になって施設を離れ、臓器を提供するクローン人間の介護人となり、そしてその介護人もやがては臓器提供者となり短い生涯を終えるという物語。
 
 魂とはなにか?自己決定とはなにか?権力とはなにか?
 
 原文を超えると定評の高い翻訳者土屋政雄の翻訳タイトル「わたしを離さないで」の私とはだれのことなのだろう、離さないでとはどこから離さないでといっているのだろう。「わたしを離さないで」を読んでいるとまるで魂と対話しているような気になってくる。


posted by takonoki at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | @横田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

第19回 ピープルファースト大会In大阪 開催のお知らせ

今年も11月2日(土)3日(日)の両日。
大阪のクレオにてピープルファースト大会が開かれます。
2013.第19回PF大会チラシ.pdf

一時期、「2年に1回にしよう」と言う話も出ていたはずの当事者による全国大会が、結局は毎年開かれると言う状況に、当事者の皆さんやその周囲にいる支援者の皆さんの凄さを感じます。

たこの木クラブとしては、毎回参加人数は0人。
でも、多摩からは10数人の当事者が参加しています。
(前回は、なぜか私もたこの木ではなくPF東久留米として参加しました)

とりあえず、
たこの木としては、あくまでも個人参加を求め、個人が個人として参加できるようその人の支援ができるように努めています。
又、初めて参加する人たちが引き続き関心を持てるような取り組みを担っています。

(と、かっこいいこと言っても実際は何もできていないですが、所属団体からの参加ではなく、個々人一人一人が参加している状況にはこだわっています)

と言うことで、
すでに大会参加を表明している当事者。
まだ、迷っている当事者。
具体的な事が見えないためになんとも応えられない当事者等々。

チラシと案内が届いたことで、これから大会参加に向けての支援を開始していきたいと思います。

個々の当事者が大会に参加するためには、
参加する当事者の数だけ支援者が必要。
なので、ぜひ大会参加を願う当事者の支援に関わってみたいと思う方は、
たこの木クラブまでご連絡ください。

尚、大会に参加するためには参加費以外にも交通費や宿泊費等の費用がかかります。
当事者は自らが用意するにして、
支援者にかかる費用については、個々の当事者に寄って状況が変わります。
費用を理由に支援者として参加できないと言う事態にならないよう努めますが、
どういった形なら参加できるかも含めて遠慮なくお声をかけてくれればありがたいです。

今年の大会も様々な出会いがあることを願っています。
どうぞよろしくお願いします。

大会詳細⇒ピープルファースト通信.pdf

posted by takonoki at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

たなばた

こんにちは、西山です。

先々週の話ですが、


たこの木で

写真 (1).JPG

七夕やりましたー


まさかこんな日が来るとは。


私はこういうの、七夕だぁ〜良いな良いな〜だけど準備するのめんどくさいしなぁ〜竹無いしなぁ〜

で結局やらないタイプなんですが、


他の女子がねっ!

私以外のボランティア当事者含めた女性たちが短冊やら竹やら買ってきてくれたのですー(^0^)/


それでみんなで短冊書いたり飾りつけしたり!
やりだすと楽しいですな。



この女子たちによってこれから毎月すいいちでお誕生日会やろうという話も出てます。

そう、そのために小学校のお楽しみ会でよく見た輪っかのアレを作ったりもしたのですよ!

女子だねー女子っぽいねー



そんなわけでとりあえず来週24日、7月度誕生日会をやってみます、よ!

posted by takonoki at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | @西山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月18日

ちょっと一息ブレイクスルーじゃなくてブレイクタイム

横田です。
きょうはたこの木通信の発行日でした。
すいません、疲れて頭がまわりません。
毎週「わかってくれる人だけにわかってもらえればいいノート」を更新することはむずかしいです。来週はなんとか更新しようとおもいます。

いいわるいは別として毎月たこの木通信を書いているときブレイクスルーが来ます。
このブレイクスルーは快感ですがあとかなり疲れます。
いい経験を毎月させてもらってることは感謝しています。

今回は当事者の会でのできごとと、カズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」と沖縄「集団自決」裁判をからめて自己決定とはなにかについて書くつもりでしたが。沖縄「集団自決」裁判についてはなにも触れることはできませんでした。

あまりに無謀な試みでしたが、無謀なので他のことを書こうとしても今までの経験から書けないのをしっていますから、とにかく書けなくても書くという感じでいつも通信を書かせてもらっています。

今日はビールでものんでねます。すいません。
posted by takonoki at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | @横田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月22日

第7回自立生活支援を考える会が開かれました。

7月21日(日)13時半〜16時半。
小平市の仲町公民館にて、自立生活支援を考える会が開かれました。

今回は、発題者を立てて行おうということで、
来年4月より始まる重度訪問介護の対象者拡大をめぐり寺本晃久さんに今後の課題や現状について語って頂きました。

居宅介護の一類型が、重度身体当事者に限定されて以来、その対象者を拡大する事は常に願って来ました。
様々な方々の尽力をもってようやく来年度からその対象を重度身体に限らず必要とされる人が受けれるようになります。

しかし、長年重度身体当事者の人たちが育ててきたこの類型。
対象者拡大に際し、どのように考え利用していけばよいのか?
その実施が間近に迫る状況の中、まだまだ何ら明確なものがないという状態です。

今回、テーマを決めての考える会と言うことでは、
どうにもマニアックな話に終始したように思います。

その中で様々な人たちと考えなければならないことは、

対象者拡大にあたって、参加者のOさんが
「制度論」と「支援論」の両方から重度訪問介護を考えなければならないと言っていました。

私なりにそれを考えてみると・・・

制度論的には、
その対象者をどのようにしていくのか?
担い手の資格・研修の問題。
類型によって切り分けられる自立生活支援上の不備は、各場が創意工夫し各々が行政に対し声を上げ生み出し、不十分ながらもその解決に努めてきました。
それらの事を、新たな枠組みの中どのように展開していくのか?
対象者拡大は良いことと思いますが、実際面と制度面での整合性は結構ややこしいと思います。
又、支給決定のあり様等々その他にもいろいろあると思います。

支援論としては、
重度訪問介護にある「見守り」と言う概念が、ともすれば「見張り」となってしまう点をどのように考えるか?
制度的にスッキリし、長時間の介助時間を前提とする中で、当事者は事業所によって囲い込まれないか?
そうならないための仕組みをどうするか?
長時間の派遣を前提とする枠組みのさらに前提として「自立生活を支援を支援する」という点をどのように考えるか?

その他もろもろ。
制度の話と支援の中身は切っても切れないものですが、
それぞれにマニアックで、個別の状況があまりにも様々な中、
両方をきっちりと整理し展開していくことは非常に大変なことだと思います。

なので、どちらが大切とかどちらが先かと言う話よりも、
それぞれに得意とする分野を出しあい、ともに様々な角度から考えて行きたいと願います。

今回は、かなり制度的な話と今後の戦略的な話しになってしまったので、
次回は、実際自立生活の場において長時間介助をしている立場から思い描くことについて考えてみようということになりました。

一応12月1日(日)13時半〜16時・場所は多摩市を予定しています。
ぜひ今から予定に入れておいてください。

※詳しい報告は、たこの木通信で!



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2013年07月23日

画伯だより

こんにちは、西山です。

画伯から絵こないなぁー、そういえば前すいいちの時にいつかブログに載せるから!って言っていろんな人の絵ストックしてあったなぁと思って探してみると、


あったー^^//
てって.jpg


これはよく通信の表紙にもなってるHさんの作品ですな。色は多分遊びに来てる人がつけたやつかな。



そしてなんと同時に、まだ封を開けていなかった画伯から私宛ての手紙を発見!

うぅ、申し訳ない。全然気づいてなかった。

その中に私の似顔絵が!

新しい画像 (2).jpg


似てる…私に似ている。
ただ一つ、私口角下がってるけど。



岩橋さんも書いてたけど先日自立生活支援を考える会がありました!


なんか思い返すといろいろ言いたいことが出てきた気がしないでもないのでそれはまた通信にでも書こうかなっと。

お楽しみにー。





posted by takonoki at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | @西山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月25日

「わかってくれる人だけにわかってもらえればいい」ノートB

重量挙げ(じゅうりょうあげ)・・・バーベルを両手で頭上に持ち上げ、その重さを競うスポーツ。ウエイトリフティング(Weightlifting)とも呼ぶ。

今日は何キロ持ち上げることができるだろう。

プロ野球選手のようにそれが職業として重量挙げは成り立ってはないので、いろんな職業の人もしくは学生が重量挙げというスポーツを楽しんでおられるのだろう。

限界ギリギリの重さのバーベルを持ち上げるときは全身全霊の集中力が必要とされるに違いない。普段の生活をひきずってなんかはいられないはずだ。

全身全霊の集中力で限界ギリギリの重さのバーベルを持ち上げている間はおそらく無の状態なのだろう。その無の状態というのは禅宗なんかでいう充実感に満ちた至福の瞬間であるに違いない。

今日も重いことを書こうと思って臨んだのだが我ながらとっても軽いように感じるのはなぜだろう。

「まったり」という言葉をたこの木で活動するようになってからよく耳にするようになった。「まったり」と聞いてなるほどなーと思うこともよくあるが、やはりそれ以上に鼻につく。

ヘルパー、支援者が「まったり」という言葉にだまされ、だましてる気がしてならない時がよくある。
無の状態に至るような集中力をだすきっかけを人は誰もが欲している。それはもはや私には明らかに思える。そんなことは支援やヘルパーの仕事ではないとたいていの人はいうが、私は「まったり」同様「無の状態」にいたるような集中力をだすきっかけづくりの支援というのはホントは必要だとずっと思ってきた。個人的には自立生活以上に必要だと思っている。しかしながらそれに関しては全く相手にされなかった感じがする。

たこの木通信で「自立生活すればいいってもんじゃない」を連載したり「あとすぺ」をやったりしたのもそういう想いがあったのだと今になって思う。

充実感をもって活動している支援者やヘルパーたちは当事者に対して当事者にとっての充実感を持ってほしいと思わないのだろうか?充実感をもって活動している支援者は露骨にまるでそんなことはどーでもいいという風にみえてしかたがない。

それって左翼や共産主義のリーダーにありがちだよね。原発推進派の奴らってみんな充実感にあふれたるんだよ、きっと。死に至る充実感。原発推進派のリーダーなんて自分が死ぬ時は地球が滅亡する時だと思ってるんじゃないかな。結構魅力あると思うよ。どうするよ。

最近よく演劇やってたころのことをよく思い出す。演劇というのはホント金にならない。ブロードウェイでさえトントンで大成功らしい。演劇やってたころこんなに金にならなくてしんどい思いしてどうしてこんなに一生懸命にやるのだろうと自分でも不思議でならなかった。

極限の集中力の響き合い。それはそれは面白かった。そんなことを実は私はたこの木で目指したこともあった。もはや今となっては夢のまた夢だが、だれもが無に至るような集中力を持つきっかけを欲しているという確信は強くなるばかりだ。もちろんそれは農作業でもなんだっていいんだけども。

収集がつかなくなったので一休さんの話でもします。

 ある日、村人の一人が禅師の一休に尋ねた。「師よ、どうか私のために究極の最高の知恵を書いてください。」
 一休は即座に筆を取ると、「注意」と書いた。「それだけなのですか?」男はたずねた。「他に付け加えることはないのでしょうか?」
 すると一休はさっと二度目を書いた。「注意。注意。」と。「さて」男はいくぶんいらだちながらいった。「私には、いま師がお書きになったことに深さや微妙な意味があるとは思えません」
 すると一休は三度目も同じ言葉をさっと書いた。「注意。注意。注意」と。男は半分怒って迫った。
 「だからその『注意』という言葉は何を意味しているのですか?」
 すると一休はやさしく答えた。「注意とは、注意じゃよ」。


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2013年07月29日

「自立生活」ってなんだろう?

「自立生活」とは?
「自立」=「自らによって立つ」「生活」と私はスッキリ思っている。

では、
「自らによって立つ」とは?
「誰か特定の人や特定の環境の中でした暮らせない」というものではないと言う事。

「特定の」というのは、
親や支援者と言う特定の人であったり、
「入所施設」や「社会的入院」と言う環境だと考える。

なので、「様々な」とか「いろいろな」という言葉をよく使う私。
「様々な人がいろいろな形でその人の周りに存在している」その中で暮らすと言うことが、「自立生活」だろうと思う。

でも、
「自立生活」という言葉は、「障害者自立生活運動」と言う歴史の中で生み出されてきた言葉。
私の暮らしを暮らしのことを同様に考えていても「自立生活」とは言わない。

たこの木通信に連載されていた「自立生活すればいいってもんじゃない」と言うタイトルの横田さんの記事は、
たこの木やたこの木を主宰してきた私がいなくても成り立つものとして、とても大切なことを言っていると思う。

「自立生活支援を考える会」も
「自立生活を考える」ではなく「生活支援を考える会」として私自身臨んでいる。

「自立生活」は、あくまでも本人のもので、私たちは常に支援や私自身のありようを「考え中(西山さんのたこの木通信の記事)」でなければと思う。

来年4月より、重度訪問介護の対象者が拡大される。
「府中療育闘争」に始まり、「重度脳性まひ者介護人派遣事業」⇒ヘルパー制度との統合⇒「日常生活支援」⇒「重度訪問介護」と言う歴史。
そこには、重度身体当事者たちが切り開いてきた「自らによって立つ」ための「介助保障」の歴史がある。
自らが必要とする介助を実現するために、「自薦登録ヘルパー制度」という枠組みも生み出してきた。(残念ながらこの制度は現制度下では、事業所派遣となりなくなってしまった)

まさに、「自立生活すればいいってもんじゃない」=「介助すればいいってもんじゃない」と言う事が含まれており、「自薦」と言う中にともに「考え中」を積み重ねてきた歴史が埋め込まれていると思う。

その重度訪問介護の対象者が拡大される。
当然、そこには「自立」と言うキーワードを常に描きながら展開されなければならないと思う。
制度を生み出していく過程では、どこから攻めていくか?ということも大事で、
24時間の「見守り介護」と言う発想だけ取り出せば、精神当事者たちはかえって辛い状況になってしまう。
その辺りは、今後「待機型」等も含め検討されなければならないと思うが、
とにかく、現時点で「自立生活」をしている「重度知的当事者」の「介助保障」の一つの枠組みとして、実効性あるものとして行きたいと願う。

しかし、
重度身体当事者たちが長い年月をかけ作り上げてきた「重度訪問介護」と言う枠組み。

意思決定や自らを表現する事に困難さを抱える重度知的当事者の場合、
その枠組の利用についても、支援者や介助者や事業者の手の中に入ってしまう。

重度身体当事者なら、自らに支給された支援の量を持って事業所を選ぶことはできるし、
選択する事業所がないからと自らが事業所を起こした人たちは数多くいる。
又、当事者自らが起こした事業所を頼りサービスを受ける人たちもいる。

しかし、
重度知的当事者の場合はどうだろうか?
長時間介護を前提とするこの枠組は、
本人にとって良いことでもあるが、事業所にとっても非常に良いこと。

月に400時間〜500時間の支給が当事者になされた時、
足りない時間数を事業所が負担したとしても、それ相当のお金が入ってくる。
当事者を囲い込み、地域から分断して事業所のみで支援する。
それを本人が望むか望まないか?ということも
囲い込まれてしまっては何も見えなくなる。

たこの木はこれまで、そういった事態にならないように複数事業所で支えることを求めてきた。
重度知的当事者の介助が担えるよう他の事業所との連携を常に求めてきた。

重度訪問介護をめぐってのアンケート調査によれば、
現時点でこの枠組の対象者は全国で100人に満たないらしい。
その数字は、長年重度知的当事者の「自立生活」を真剣に考え、支援を担い実現してきた数。

そこには、制度論も支援論もひっくるめて、目の前にいる人たちを支えよう・ともに生きようと願ってきた人たち。

しかし、
枠組みができてしまうと、それに乗っかり「自立生活支援」といってしまえば、事業所やヘルパーたちによって当事者の暮らしは何とでもできてしまう。
それが、重度知的当事者が置かれている状況であり、
もし、そこで何か間違いがあれば親御さんたちは制度が整ったとしても安心して子ども達を「自立生活」の場に送り出せないだろう。
又、行政はその制度運用に様々な足かせをつけてくるだろう。

そうならないためには、
対象者拡大にあたり、
「自立生活」を求め「介助保障」を求め積み重ねてきた、重度身体当事者の歴史を改めて学ぶ必要があると思う。
そして、
その担い手を見ず知らずの事業所やヘルパーに委ねるのではなく、長年当事者たちと同じ時や空間を共有してきた仲間たちによって担われるよう、「就学運動」と言う視点を埋め込みこの先を作っていく必要があるように思う。



posted by takonoki at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする