「自立生活」とは?
「自立」=「自らによって立つ」「生活」と私はスッキリ思っている。
では、
「自らによって立つ」とは?
「誰か特定の人や特定の環境の中でした暮らせない」というものではないと言う事。
「特定の」というのは、
親や支援者と言う特定の人であったり、
「入所施設」や「社会的入院」と言う環境だと考える。
なので、「様々な」とか「いろいろな」という言葉をよく使う私。
「様々な人がいろいろな形でその人の周りに存在している」その中で暮らすと言うことが、「自立生活」だろうと思う。
でも、
「自立生活」という言葉は、「障害者自立生活運動」と言う歴史の中で生み出されてきた言葉。
私の暮らしを暮らしのことを同様に考えていても「自立生活」とは言わない。
たこの木通信に連載されていた「自立生活すればいいってもんじゃない」と言うタイトルの横田さんの記事は、
たこの木やたこの木を主宰してきた私がいなくても成り立つものとして、とても大切なことを言っていると思う。
「自立生活支援を考える会」も
「自立生活を考える」ではなく「生活支援を考える会」として私自身臨んでいる。
「自立生活」は、あくまでも本人のもので、私たちは常に支援や私自身のありようを「考え中(西山さんのたこの木通信の記事)」でなければと思う。
来年4月より、重度訪問介護の対象者が拡大される。
「府中療育闘争」に始まり、「重度脳性まひ者介護人派遣事業」⇒ヘルパー制度との統合⇒「日常生活支援」⇒「重度訪問介護」と言う歴史。
そこには、重度身体当事者たちが切り開いてきた「自らによって立つ」ための「介助保障」の歴史がある。
自らが必要とする介助を実現するために、「自薦登録ヘルパー制度」という枠組みも生み出してきた。(残念ながらこの制度は現制度下では、事業所派遣となりなくなってしまった)
まさに、「自立生活すればいいってもんじゃない」=「介助すればいいってもんじゃない」と言う事が含まれており、「自薦」と言う中にともに「考え中」を積み重ねてきた歴史が埋め込まれていると思う。
その重度訪問介護の対象者が拡大される。
当然、そこには「自立」と言うキーワードを常に描きながら展開されなければならないと思う。
制度を生み出していく過程では、どこから攻めていくか?ということも大事で、
24時間の「見守り介護」と言う発想だけ取り出せば、精神当事者たちはかえって辛い状況になってしまう。
その辺りは、今後「待機型」等も含め検討されなければならないと思うが、
とにかく、現時点で「自立生活」をしている「重度知的当事者」の「介助保障」の一つの枠組みとして、実効性あるものとして行きたいと願う。
しかし、
重度身体当事者たちが長い年月をかけ作り上げてきた「重度訪問介護」と言う枠組み。
意思決定や自らを表現する事に困難さを抱える重度知的当事者の場合、
その枠組の利用についても、支援者や介助者や事業者の手の中に入ってしまう。
重度身体当事者なら、自らに支給された支援の量を持って事業所を選ぶことはできるし、
選択する事業所がないからと自らが事業所を起こした人たちは数多くいる。
又、当事者自らが起こした事業所を頼りサービスを受ける人たちもいる。
しかし、
重度知的当事者の場合はどうだろうか?
長時間介護を前提とするこの枠組は、
本人にとって良いことでもあるが、事業所にとっても非常に良いこと。
月に400時間〜500時間の支給が当事者になされた時、
足りない時間数を事業所が負担したとしても、それ相当のお金が入ってくる。
当事者を囲い込み、地域から分断して事業所のみで支援する。
それを本人が望むか望まないか?ということも
囲い込まれてしまっては何も見えなくなる。
たこの木はこれまで、そういった事態にならないように複数事業所で支えることを求めてきた。
重度知的当事者の介助が担えるよう他の事業所との連携を常に求めてきた。
重度訪問介護をめぐってのアンケート調査によれば、
現時点でこの枠組の対象者は全国で100人に満たないらしい。
その数字は、長年重度知的当事者の「自立生活」を真剣に考え、支援を担い実現してきた数。
そこには、制度論も支援論もひっくるめて、目の前にいる人たちを支えよう・ともに生きようと願ってきた人たち。
しかし、
枠組みができてしまうと、それに乗っかり「自立生活支援」といってしまえば、事業所やヘルパーたちによって当事者の暮らしは何とでもできてしまう。
それが、重度知的当事者が置かれている状況であり、
もし、そこで何か間違いがあれば親御さんたちは制度が整ったとしても安心して子ども達を「自立生活」の場に送り出せないだろう。
又、行政はその制度運用に様々な足かせをつけてくるだろう。
そうならないためには、
対象者拡大にあたり、
「自立生活」を求め「介助保障」を求め積み重ねてきた、重度身体当事者の歴史を改めて学ぶ必要があると思う。
そして、
その担い手を見ず知らずの事業所やヘルパーに委ねるのではなく、長年当事者たちと同じ時や空間を共有してきた仲間たちによって担われるよう、「就学運動」と言う視点を埋め込みこの先を作っていく必要があるように思う。