去る11月23日。
「社会で共に生きるとは」と題された、子どもを分けない教育を考える会 練馬・教育問題交流会の集まりに行って話を聞いてきた。
そもそもは、当事者Iさんから「今度僕が講演するのできてください」と誘われたからで、
いろんな話が聞けると思い出かけていったのです。
実際は、Iさんの恩師であるTさんが支援学校・支援学級・普通学級を経験してきた事から「共に生きる」事について考える会でした。
とは言っても、Iさんともう一人HさんがTさんの両脇を固め、
Tさん自身が教師として関わってきた事のその先にIさんやHさんが確かに存在している事を実感できたとても有意義な会でした。
私はIさんやHさんとは彼らが成人してからの付き合いなのですが、
恩師を前に語る彼らの姿は、普段見せないものを感じさせてくれました。
そして、今は一見なんてことなくやり取りしている彼らも、
小中高校時代には、様々な事があったようです。
そして、もし彼らが今の学校に通うとしたら、
それはすぐさま発達障がいだのADHDだのといわれ、普通学級から追い出される対象とされてしまう。
(それを今なら笑って話をする3人の姿も素敵でした)
そんな彼らが普通学級で過ごし、Hさんは定時制高校へも通い、今日に至っている。
Tさんいわく
「共に育ち・共に生きる事は、問題を抱えつついかに解決していくかと言う模索をし続ける事」
「どういう風に支えあっていけるか?」を学ぶ事。
と言うのをさらりと言うのですが、
本当にそうだと思いました。
インクルーシブ教育の何チャラが言われている昨今。
その理念も、その実態も、あれやこれや様々な意見や想いがあると思います。
専門家と称される人たちもあれこれ語っていると思います。
でも、
「問題を抱えつつ以下に解決していくかを模索する」
その1点を以下に保障するかが、インクルーシブ教育の本質なのではないかと改めて思いました。
決して普通学級はどの子にとってもバラ色の場ではないと思います。
でも、そうなってしまったのはどこか正解を求め、正解から外れる事を恐れ、不正解にならないために人を蹴落とさなければならない場所にしてしまったからのようにも思います。
「障害児にとって今の普通学級ではまともに教えてもらえない」
「健常児にとっては、情緒面では良いかもしれないが、実際障害児がいると勉強が遅れ、どちらにとっても不幸」
「いづれの子にとっても分けて学ぶ事・個別の支援を受ける事が望ましい」という
大人が提示する「正解」に子ども達を縛っている今の学校。
Tさんが長年教師として担ってきた事は、
「教師にだってどうして良いかわからない」「解らないけど支えていくしかない」と言う事で、
教師が悩めば子ども達地も一緒になって悩む。
「いつもクラスを飛び出すA君を飛び出すたびに追いかけていると、別のクラスの子が先生A君のこと追いかけるのやめて!僕達の勉強が遅れる」と言ったそうです。
その時Tさんは、
「でもね、あなたが怪我をしたり気分が悪くなったときには、他の子ども達を置いてでもあなたに関わるから追いかけさせて」と、何も考えずとっさにその子に言ったそうです。
すると、その子はすぐさま納得してくれたとの事。
「これでよいと思っていったわけではない」とするTさんの話は、
教師も生徒も悩む機会をA君から与えられ、その解決を追い求める姿のように思います。
そして、その解決は決して「正解」のない、今の今を折り合っていく事のように思います。
普段、「折り合う」事を追い求めている私。
常に回答を求めてくる若い人たち。
たぶん分けられてそだって来た人たちは、答えの出ない「折り合い」を続けていく経験を奪われているのだろうと思います。
何が良い・悪いではなく、
なぜ良いとするのか?
なぜ悪いとするのか?
それぞれがそれぞれの中で思い描き、他者と折り合っていく。
誰かに聞き従う。
解りやすさを求める。
形を明らかにする。
人を聞き従えようとする者と聞き従う者。
解りやすくしようとする者と解ったものとする者。
形を作る側と形に乗る側。
人の暮らしって、そんなにこちらかあちらかではないと思います。
でも、幼い子ども達は、まず普通学級か支援学校かに分けられていく。
分けられてしまうと双方相手の事が見えなくなる。
見えないものを考えるなんて子ども達には非常に難しい。
なので、見えないものに不安を抱き、自分はそうならないようにと自分のことだけでいっぱいになる。
そんな事もあれやこれや思い浮かべつつ、
どうあがこうが、一緒にいるしかない状況が、インクルーシブ教育なのではないかと思いました。