私はまだ〈つらい考4〉を読んでいません。岩橋さんが〈つらい考4〉を書いたのを昨日の夜、岩橋さんから聞いて知りました。すいません。で、とりあえず〈つらい考4〉を読まないでつらい考5を書いてみたくなりました。〈つらい考5〉を書いてから〈つらい考4〉を読みたいなと。でも書いている途中で読みたくなったら読みますね。
〈つらい考〉もあきてきました。飽きてしまっているのに続けて書くというのもこれまた〈つらい〉ことです。〈つらい〉というのはモグラ叩きのようにいろんなとこから顔をだしてきますね。しかしそれでも、飽きてしまったことを飽きもせずに書き続けているといろんなところから面白さがでてきます。面白さもモグラですね。
最近(細菌)よく思うのですが、飽きてしまったことを飽きもせずにやりつづけていると〈発酵(はっこう)〉という現象がおこるみたいでおもしろいです。ヨーグルトに牛乳をたすだけで勝手にヨーグルトになったり、ぬかをかき混ぜるだけでつけもんができるみたいな。言葉も発酵します。おんなじことを飽きもせずに言い続けたり、考え続けると発酵するのだとおもいます。落語をきいているとつくづくそう思います
言葉だけでなく、すいいち企画なんかも発酵しているとおもいます。なにもしなくても勝手に発酵してくれてるみたいな。
しかし、発酵しておいしいといいのですが、ただ腐っているだけで煮ても焼いても食えないということだってあります。今、私が書いている文章がそうかもしれません。つまらないことを書いてどーもすいません。
最近、〈真面目(まじめ)と向き合う〉〈真面目に向き合う〉ということに考えを巡らせていました。
「あなたは真面目ですね」といわれて嬉しく思う人なんて今どきあまりいないのではないでしょうか。私も「真面目ですね」なんて言われたらあまりいい気はしないと思う。もっとも私に「真面目ですね」っていう人はいないかもしれないけど。
「福祉」とか「介護」とか「支援」とかいう言葉もかなり真面目な響きがする。
だからよく「福祉ていう言葉好きじゃない」とか介護者なのに「介護者という言葉はほんとは好きじゃないんですけど・・・」ということを時々耳にする。
たこの木通信2013年12月号の西山さんからの文章から引用させていただきます。
《もう一つは介助関係の話を他人にしづらいということに限定しての話になりますが、介助の悩みはかなり自分の人格に関わってくるところのような気がして人には言いにくい.》
で、それでも人に話そうとするとどうしても、自分でも手におえないような〈真面目さ〉にむきあわざるをえないみたいな感じになってくる。と私(横田)は思う。たこの木通信を書いててもいつも思うのだが、書き進んでいくうちに「なんでこんなにも真面目なことを書いてしまうのか」という気持ちにどうしてもなってくる。
で、真面目って確かにどこか胡散臭い。と思う。たこの木で活動する前はそんなことはあまり思っていなかった。むしろ私みたいな不真面目な人間は常日ごろ真面目を心がけるくらいでちょうどいい位におもっていた。
しかしたこの木で活動していると真面目って権力者に従順になること以外のなにものでもないみたいに思えるときがある。
お国のために戦争にいって人を殺してきます、という人が真面目で、戦争なんかイヤですという人が不真面目とされる時代があった。
また、今の世界ではたとえば、権力者に対して従順であろうとしているのにできない人に向かって権力者がさらに鞭をふるようなことが日常茶飯事であるため、真面目なんていう言葉はますます胡散臭い。
たぶん真面目という言葉は国家権力者たちが国民を都合のいいようにてなずけるために利用するための言葉なのだろう。
書いているうちにおもいもよらぬ方向にいってしまいました。すいません。このへんでやめてこれから〈つらい考4〉を読もうと思います。