2014年03月04日

画伯だより

こんにちは、西山です。

久しぶりに画伯から絵が届きました、よ!
DSC_0001.JPG
田中義一さんと山下大志さんの絵

私は誰だか分かりませんが、ご本人たちの了承は取っているそうです!

ブログ、久しぶりだなぁ、続けるのは、難しいことよな(´ω`)

最近のブログでつらい考が続いてたので、なんとなく入らないようにしていたのですが。

今度の自立生活支援を考える会も「つらさ」の続きだそうな。

そんなわけでつらい人は是非お越しを。
posted by takonoki at 15:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 画伯 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月12日

つらい考 7 

たこの木クラブのブログのお引越しとリニューアル。
西山さんが頑張ってくれました。

「それに応えてしばしば更新しなければ」と思うけど日々様々な事が巻き起こるたこの木なのでたぶんムリだろうと想いつつ、是非皆さんリアルたこの木に遊びに来て下さい。

いつの間にか横田さんとの交換ブログになっている「つらい考」
とても大切なことなんだけど、そればっかりでもないし、このタイトルの落とし所がどこにあるだろうかと想いつつ、とりあえず私自身の落とし所として書いてみたいと想います。
(最終的な落とし所は横田さんの方にお任せするので、横田さんよろしくです)

まず、なぜ「つらい考」なんだろうか?
私の場合も「つらい」場面はあるのだが、それを上回るものがあるから普段考える事はない。
ただ、私自身にもあるであろう「つらい」を考えた時、それがどこか日々の活動の中で「麻痺させている」という事にも気づいた。

気づいてみれば、将来自分に襲ってくるかもしれない事柄について、
事前に考えておかなければと想うめんはある。
でも、それ以上に今後(将来)に向け考えなければならない事はたくさんあるので、現時点で私自身が描く「つらい」について考える事はほとんどない。

では、なぜ「つらい考」なのか?
たぶんそれは「つらい」と言う人がいるから考えなければならないと想う。
その人の「つらさ」に自分がいかに関わっているか(すなわち、私自身が相手をつらくさせている)について、
避けて通るのではなく向き合わなければならないと描いている。

私は、このテーマが出された以降、
ブログやたこの木通信や先日の「自立生活支援を考える会」においても、
相手は何を「つらい」とし、それも含めてこの先をともに担っていきたいと願う。
そのために、いろんな人の「つらい」を受け止めなければと想っている。

それは、単に支援者のと言うよりも私自身と関わりのあるすべての人に対して同様にありたいと思う。
ただ、それを言ってしまっては見えてこないものもあるからとりあえずは「支援者」と言う枠組みの中で考えてみたいと思う。

そもそもは、「支援」と言う概念さえない頃から「当事者(と言う概念もなく)」たちと関わり、これまでをつくってきた人たちにとっては、あまり意識の中にない事柄かもしれない。
もしあったならここまで続いていないかもしれない。
何をするにしても、当事者たちとともに取り組んできたし「お前も俺も」と呼べる関係の中でここまでやってきた。

しかし、ある程度枠組みができた中で「制度の担い手」や「介助者」や「支援者」と言った枠に入り、それを生業とする人たちは、枠(制度等)をつくってきた者とは違う想いや発想があるのだろうと思う。

その辺りを今後もあれこれ聞いてみたいと想っている。

で、
その辺りを書き始めるとまとめるどころかさらに拡大されるし、
拡大し続けたとしても、個々置かれている状況が違う中で、
終わりのないテーマでもあるから、とりあえず私の方はこの件から離れたいと思う。
(横田さん!後はよろしく)

ただ、ブログ上ではおしまいにしても現場においては考え続ける必要があると想っている。

そのためには、「つらい」と言う話がもっともっと「楽しい」と言う話と同等に語られる状況が必要なんだと想っている。
「楽しい」話は、周囲も聞いていて楽しい。
「つらい」話は、周囲も聞いていてつらい。
なので、周囲は「つらい」話を聞きたくない。
よって「つらさ」はそれを描く個人の中に仕舞い込まれる。

「楽しい」話をたこの木通信に書けば、読者は楽しくなる。
当事者が地域で暮らす上での「課題」は、読者と共有する事はできる。
でも、
「つらい」話を通信に書けば、
「そのような想いにいる人が介助しているのか?」とマイナスイメージだし、
「当事者の方がもっとつらい」と言う比較の話になったり、
そもそも、「つらい」の原因を招いた人が責められたり、書いた人に釈明を求められたりする場合もある。
すると、
会報等公の場に「つらい」は書けなくなるし、
書けなくなる事で「本当は私も想っている」人たちと出会えなくなる。

そんな事を考えてみれば、
「つらい」は「つらい」として想い描く人が語り、
語らえた側も「つらい」を「つらい」として受け止め、
ともにその先をめざしていきたいと願う。

とは言っても、
私自身もいっぱいいっぱいの状況の時に「つらい」を語られると受け止められない。
受け止められない中で、「つらいを語ってはいけない」と相手に思わせてしまっているかもしれない。

「つらい」話を語る人と聞く人との関係の中に収める事もこれまたつらい話しなので、
ぜひぜひ、いろんなところでいろんな人と「楽しい」と同様の「取扱い」ができるようにしたいとも願う。
posted by takonoki at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする