2013年07月25日

「わかってくれる人だけにわかってもらえればいい」ノートB

重量挙げ(じゅうりょうあげ)・・・バーベルを両手で頭上に持ち上げ、その重さを競うスポーツ。ウエイトリフティング(Weightlifting)とも呼ぶ。

今日は何キロ持ち上げることができるだろう。

プロ野球選手のようにそれが職業として重量挙げは成り立ってはないので、いろんな職業の人もしくは学生が重量挙げというスポーツを楽しんでおられるのだろう。

限界ギリギリの重さのバーベルを持ち上げるときは全身全霊の集中力が必要とされるに違いない。普段の生活をひきずってなんかはいられないはずだ。

全身全霊の集中力で限界ギリギリの重さのバーベルを持ち上げている間はおそらく無の状態なのだろう。その無の状態というのは禅宗なんかでいう充実感に満ちた至福の瞬間であるに違いない。

今日も重いことを書こうと思って臨んだのだが我ながらとっても軽いように感じるのはなぜだろう。

「まったり」という言葉をたこの木で活動するようになってからよく耳にするようになった。「まったり」と聞いてなるほどなーと思うこともよくあるが、やはりそれ以上に鼻につく。

ヘルパー、支援者が「まったり」という言葉にだまされ、だましてる気がしてならない時がよくある。
無の状態に至るような集中力をだすきっかけを人は誰もが欲している。それはもはや私には明らかに思える。そんなことは支援やヘルパーの仕事ではないとたいていの人はいうが、私は「まったり」同様「無の状態」にいたるような集中力をだすきっかけづくりの支援というのはホントは必要だとずっと思ってきた。個人的には自立生活以上に必要だと思っている。しかしながらそれに関しては全く相手にされなかった感じがする。

たこの木通信で「自立生活すればいいってもんじゃない」を連載したり「あとすぺ」をやったりしたのもそういう想いがあったのだと今になって思う。

充実感をもって活動している支援者やヘルパーたちは当事者に対して当事者にとっての充実感を持ってほしいと思わないのだろうか?充実感をもって活動している支援者は露骨にまるでそんなことはどーでもいいという風にみえてしかたがない。

それって左翼や共産主義のリーダーにありがちだよね。原発推進派の奴らってみんな充実感にあふれたるんだよ、きっと。死に至る充実感。原発推進派のリーダーなんて自分が死ぬ時は地球が滅亡する時だと思ってるんじゃないかな。結構魅力あると思うよ。どうするよ。

最近よく演劇やってたころのことをよく思い出す。演劇というのはホント金にならない。ブロードウェイでさえトントンで大成功らしい。演劇やってたころこんなに金にならなくてしんどい思いしてどうしてこんなに一生懸命にやるのだろうと自分でも不思議でならなかった。

極限の集中力の響き合い。それはそれは面白かった。そんなことを実は私はたこの木で目指したこともあった。もはや今となっては夢のまた夢だが、だれもが無に至るような集中力を持つきっかけを欲しているという確信は強くなるばかりだ。もちろんそれは農作業でもなんだっていいんだけども。

収集がつかなくなったので一休さんの話でもします。

 ある日、村人の一人が禅師の一休に尋ねた。「師よ、どうか私のために究極の最高の知恵を書いてください。」
 一休は即座に筆を取ると、「注意」と書いた。「それだけなのですか?」男はたずねた。「他に付け加えることはないのでしょうか?」
 すると一休はさっと二度目を書いた。「注意。注意。」と。「さて」男はいくぶんいらだちながらいった。「私には、いま師がお書きになったことに深さや微妙な意味があるとは思えません」
 すると一休は三度目も同じ言葉をさっと書いた。「注意。注意。注意」と。男は半分怒って迫った。
 「だからその『注意』という言葉は何を意味しているのですか?」
 すると一休はやさしく答えた。「注意とは、注意じゃよ」。


posted by takonoki at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | @横田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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