「わかりあえる」と答えたあなたは典型的な日本人であるとともに国際的にみて少数派のコミュニケーションの取り方をする人です。
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
こんなコミュニケーションの取り方をするのは日本人以外そう他の国の人はあまりやらないでしょう。やるとしたら島国や閉鎖的な村社会でしょう。
「わかりあえる」ということを前提としないでなんのためにコミュニケーションをするのか?というような問い自体もまさに日本人的です。
大陸などに住んでいる多数派の人たちは「わかりあえない」異文化、多言語の世界の中で自分は何者であるかをとにかく表現しないことには生きていけないのです。
「わかりあえない」のが当たり前、それで自分はなにを他者に表現するのかというのが国際的には主流のコミュニケーションの取り方です。
平田オリザさんが書いた「わかりあえないことから」という本にはそのようなことが書かれています。オリザさんがこの私の文章を読めばたぶん「私の本のことをよくわかっている人だ」だと思ってくれるでしょう。
私もオリザさんも日本人です。オリザさんも書いていますがなにも無理して多数派になる必要はありません。
しかし、柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 なんていうコミュニケーションが日本人の間でもわかりあえなくなってきているのも事実です。
秋でもパパイヤ、冷凍みかん、ブルーベリー、二文字でおさめたいなら梅、スーパーにいけばなんでも食えます。鐘の音なんか鳴りません。
昔の日本はそうではありませんでした。秋になると日本のそこらじゅうに柿がナリ、みんな柿をたべました。一仕事終えた夕暮れ時、柿をくっていると寺の鐘がナリました。
柿を売れば金になると勘違いする人もそのころはあまりいませんでした。
いまでは信じられないほど「わかりあっている」なかでコミュニケーションがなりたっていました。
では、「わかりあえる」ことを前提にコミュニケーションするのと、「わかりあえない」ことを前提にコミュニケションするのとどっちが面白いか?
そんなの「わかりあえる」のほうにきまってんじゃん、と答えたあなたはティピカルジャパニーズ。「わかりあえない」ことを前提にコミュニケーションすることに慣れていない日本人はそのコミュニケーションの面白さもわかりにくいはずです。
「わかりあえない」ことを前提にコミュニケーションがおこなわれるすいいち企画は私にとってかなり苦痛をともなう場です。そーいえば当事者の会もそうです。ところが当事者と呼ばれている人たちをみていると以外に楽しそうにしています。かれらのコミュニケーションは国際的には主流派、超マイナーなすいいちも国際的には主流派の可能性大です。
平田オリザ著「わかりあえないことから」の最後のほうのP208から引用します。
【「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理がはたらいてはいないだろうか。】
これはかなり鋭い指摘です。だから、すいいち企画で当事者とよばれている人たちのもっている日頃の疎外感というのははかりしれません。
「わかりあえる」日本人社会のなかで排除されるということはどれだけこわいことか?だから日本人の多くは自分だけは排除されないように生きようと必死になるのかもしれません。
自分だけは排除されないようにと必死に生きるよりも、排除されても「わかりあえない」のを前提にコミュニケーションする面白さを身につけていくことのほうがこれからの日本を生きるのには生きやすく面白いかもしれません。
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