12月3日の自立生活支援を考える会が始まる前、私は「長時間の介護をするとは?」というより「介護のつらさについて」というようなことでほとんど頭がいっぱいだった。で、その会が終わって、私自身が「つらい」とか「苦しい」という感情、あるいは「痛い」という感覚にものすごく日ごろ関心をよせていることを改めて自覚した。
なぜ、どのように、私はつらさや苦しみにについて興味があるのかを思いめぐらしているうちに今回の自立生活支援を考える会で、私に対してある方からの質問を思い出した。
「横田さんは以前と比べてたこの木クラブや介護がつらくなくなったといっているがそれは何が変わったのか?」
確かそんな感じの質問だったと思う。その時は自分でもわからなかった。てゆーか今わかった。
答え・・・・たぶん以前は「つらさ」や「苦しみ」に対してどうすればそのつらさや苦しみを取り除くことができるかという考え方をしていたのだと思う。しかし今はどうやって取り除こうかというより、そのつらさや苦しみとどうやって付き合っていこうかと考えるようになってきているのだと思う。
私は私自身のつらさや苦しみに興味がある。
私は私以外の支援者や当事者のつらさや苦しみに興味がある。
自分自身のつらさ(不都合)を棚において、当事者のつらさ(不都合)を取り除こう。これは現在の病院のスタイルである。あるいは入所施設もそういうスタイルではないだろうか。近代科学のスタイルといってもいい。
近代科学は人のつらさや苦しみなどの不快な感情にたいしても客観的な立場に立ち、もっぱら取り除く(解消する)ことに知をそそいできた。実際にそれは目覚ましい成果を生んできたわけだが、成果と共に、その限界や成果に伴う不都合な副作用があらわになった。
自立生活支援の現場においては病院や入所施設のような近代科学的な知のスタイルでは成り立たない、回っていかないことが多すぎる。
ヘルパー資格を得た多くの新人ヘルパーが自立生活支援の現場で近代科学的な知のスタイルの限界、矛盾に直面したはずだ。
当事者の不都合にたいしての無力さ、棚に置くことのできないヘルパー自身のつらさや苦しみ。何をどうふるまえばいいのかさえわからなくなってくる知的障害的不安。
知的障害当事者の自立生活支援をやっていると、それぞれの支援者自身の持つ知的障害性がすごくあらわになりやすい。
その支援者の持つ個人的な苦悩や問題もあらわになりやすい。それ自体、近代科学的知の流れをくんだ現代人にとってはかなり「つらい」ことではないだろうか。そのつらさを安易に退けるよりは、そのつらさと上手く付き合っていくことを考えたほうがこれからの時代、面白いのではないかと私はおもっている。
知的障害者なんていないの。アナタがこさえているのよ、アナタやアナタの周囲(一般社会…既成概念)のご都合による一方的なモノサシでね!
さらに
つらいの?なら、辞めちまえ。や、辞めてください、お願いします。
わたしが(アナタ方のオッシャる)知的障害者とかだとして、つらいつらいならば関わっていただかなくて結構ケダラケである。
楽しい
目から鱗の連続
広がっていく変わっていく
…たぶんきっと、健太郎に出逢えなかったらわたしは、人として(よりヒトとして)大切な、わたし自身が〜我々現代人が忘れて失って見失っている本質を、そうなっていることさえ無自覚なままに、違った(間違った…もはや危険で愚かでカナシイと言える…新自由主義?経済至上主義?超資本主義?個人主義〜利己主義は言ったもん勝ちな…排他主義!)方向へと無意味な競い合いを繰り返しながら生きていたかも。
苦しみや痛みは常にだし、それをつらさといえばそうだろう。けど、その先(もと)にあるのは知的障害者(と呼ばれている人々)ではありませぬ。むしろ彼ら(の存在とわたしが関わること)は癒しで解放で自己回復で希望で理想です。
アナタが見ている(画いている)のは岩橋さん(という支援のエキスパート)では?だとしたら、岩橋みたくなりたいけどなれないオノレはさぞや、
つらかろう。が、
画く理想(目指すその先)が彼ら(との同化?シンクロ?)ならば、そんなにつらくはないし、そんな文章にはならないと思うよ。
我々ホモサピエンスが子孫繁栄や種族存続のために、「闘争」ではなく「扶助」を、「占有」よりも「分配」を、理性ではなく本能的に選択する(してしまう)生命体へと進化する、個人の能力は自己の勝ち残りではなく他者との共存のために…。健太郎たちがホモサピエンスの一個として存在していることは、その可能性を示していると思うの、気づいたの。気づかせてくれたの、健太郎と、健太郎の母になれたことで知り合えたあのことあのことあのこ(個)が。
せっかく出逢えたよこっさん(という、同種族の一個一生命体)が、つらいつらいとい生きているのならやはり、わたしもつらい。
わたしは楽しいよ、よこっさん?あなたにもどうか、痛みや苦しみや憤りの実生活の中で、明るい希望と、その負の感情が歓びへと変換される何か(それを魔法の言葉と呼ぼうか)を贈りたい。
ちょっと早いけど
メリークリスマスよこっさん♪
(無宗教だけど)
承認してほしいとは特に望みません。