2013年12月09日

「つらい」考 その2

先日開かれた「自立生活支援を考える会」で横田さんが話題提供者となり、話をしてくれたことやその後「つらい考」と題して書いたブログを読み、私も私の中にある「つらい」と言うものの中身を私なりに改めて考えなければならないと思った。

それは、横田さんは「つらさ」があることを前提としていて、その想いは今ヘルパーとして当事者達と関わる人たちにとってとても近いところにあると思ったから。

そして、私はこれまで思い描いてきた事が、どれほど現場のヘルパーの人たちからは遠いところにあったかという事を思い知らされたから。

横田さんは、「つらさを取り除く」とか「つらさと付き合う」ことに向き合っているのだが、
私は「長時間介助」についてつらさを描いたことがない。
日々の暮らしの中で、介助が立て続けにあれば「疲れるわぁ〜」と言う事はあるし、それが「つらい」に置き換えられる面もある。でも「疲れるわぁ〜」の一言で済ませられる程度。

そんな私が、介助者たちの「つらさ」に気づくはずもない。

先日の自立生活支援を考える会で考えさせられた事は、
「一旦、長時間介助はつらいもの」と立ててみると言う事。
そして、タイミングよく昨日と一昨日の2連続で長時間介助の機会がありあれこれ考えてみた。

「つらさ」を前提にしてみたとき、
実は、私の中にこの「つらさ」がないわけではないと言う事に気づく。
「つらさ」がないわけではなく、「つらさ」が麻痺しているだけかもと感じた。

私自身介助と言う現場に入って30年近く経つ。
自立生活運動を担う身体当事者の介助に入り、
昨今知的当事者達の介助に入っている。

制度が整っていない時代。
「介助に入る」=「その人と付き合う」でしかなかった。
極端な話、自分の寝床となるアパートの家賃と水光熱費とタバコ代程度の現金をもらい、
食費は、当事者分と自分の分を一緒に作り一緒に食べるのでかからないし、
衣服はいろんな人からのもらい物。
そんな生活の中で、「付き合う」ことのみを常に考えてやり取りしてきた。

なので、
正直時給で介助料がもらえるなんて夢のようだし、
「こんなんでもらって良いのだろうか?」とも考えてしまう中、
時給以上のものをあれこれ思い描き、当事者や当事者の家族とやり取りしてきた。

そして、たぶん私にも合ったであろう「つらさ」は、
それを上回る出会いや出来事の中で、様々な気づきを与えられ、当事者とともに歩む事で自らの価値観が変えられ、そのことによって自らの暮らしも解放されていく印象の中で暮らしてきた。

すなわち、
当事者との関わりの中で「つらさ」がなくなったのではなく、
「つらさ」が「麻痺」しているといった方が寄り近いように思う。

なくなったのではなく麻痺しているならば、
もし、私自身がこの先新たな出会いを求めるエネルギーや気づける感性が落ちたときには、
今、ヘルパーとして関わる人たち以上に「つらい」ものになってしまうかもしれないと感じた。

今、私とヘルパーや支援を職として関わる人たちとの違いは、
職以外のかかわりがどれほどある金井の違いだと思う。

関わるためには長い年月が必要だけど、
そこにある「つらさ」というものはお互いに共有できる事柄なんだろうと思う。
そして、そこを明らかにするには私以上に横田さんや西山さんたちの目線や各々が担うヘルパーたちの目線が不可欠であり、
一人ひとりが、もっと語ってよい状況を生み出すためには、
「介助はつらいばかりではないでしょ」と私のような立場の人たちが語るのではなく、
「介助はつらいよね」と言う前提から始めなければと思う。

でも、
こんな事を書いていると聞こえてくるのは、
「お前達以上に当事者の方がつらいんだ」と言う声
それは、先日の会で横田さんも語っていて、
その声故に介助者は何も言えなくなってしまうと言う事。
又、
「介助はつらい」と介助者が口にすることで、当事者達は何もいえなくなってしまうから、言うに言えない。と言う点。
前者は、まだ当事者とのやり取りの中でお互いを出し合い生み出したり考えつながっていく事は可能。
会の中でも、「私達は当事者と喧嘩しつつ進んできた」と言う話があったが、それがまさにそうだと思う。
しかし、難儀なのは後者の方。
「何も言えなくなる」と言ってくれるならまだしも、
言われないままに過ぎていくことに気づくと、何をどのようにしてよいか解らなくなり、
結局「つらい」と言う事は「口が裂けても言えない」とヘルパーが抱え込んでしまう。
又、当事者者のつらさをまったく感じないままに、勝手な介助を担い続けていくかもしれない。

そんなところからも、
「つらさ」が個々のヘルパーの中に留まり、
それに耐え切れなくなってしまう者は辞めていく。

又は、麻痺させることのできる者のみが長年にない続けられると言うのもおかしなことだと思う。

なので、
「つらさ」があるという前提で改めて様々な事を考えていかなければならないと思う。
そして、
その前提に立ち、介助者の「つらさ」が常に当事者にのみ転嫁されていく事を課題としなければならない。

たぶん、私が長年になってきたことは、「当事者に転嫁しない」と言う事であって、「つらさ」を抱くことの中身は、ただどこかに仕舞い込んでいただけのように思う。

そして、様々な制度によって当事者の暮らしが成り立つ昨今。
「付き合いの延長線上」だけでは、見えない様々な課題がさらに膨らんでいくと思う。

特に、知的当事者の重度訪問介護は、
長時間を前提とする制度であるが、
長時間、介助者と当事者が密室状態となる中、
介助者のつらさを当事者に転嫁されてしまっては、
密室の危険性もあれば、暮らし全体の中で介助者や支援者達に管理されていく制度となってしまうように思う。

なので、
とりあえずは、
「つらさ」を様々な人たちともっと気軽に語れる状況を生み出し、実際にあるものを見えないところで特定の人に転嫁されない状況を生み出さなければと思っているところ。
posted by takonoki at 10:42| Comment(2) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
麻痺してしるのかなぁ。
そんなこたぁないと思うけど。
麻痺の意味をわたしが、そもそも取り違えているのかもですが。
たぶん、先が画けているかどうか、と、根本に気づけているか否か、だと。
文章のやりとりは誤解やビミョーな感覚が伝達しにくいので、してはいけないのかも。傷つけてしまうかも。ですが
つらさがつらさでおわるなら耐え難し
つらさの原因が消えないものであるとしたら(そう思ってしまうと)やはり堪え難かろう
つらさの理由に納得できないとつらさはさらにつらさを引き起こす
いわちゃんさんはたぶん、
つらさの報酬を(時給を除いて)得ている
つらさはかならず自己の中で変換昇華されている
つらさの原因を(いわちゃんなりに)掴んでいて納得(ある意味)できている
掴んでいているから見通しも(なんとなく感覚的にでも)できている
実現できるかどうかはさて措き、ビジョンは画けている(漠然とでも)=たどり着けるかどうかは別に、道筋を得ている。

一緒にいる時間が楽しい(つらさも含めて)と感じてほしいです。
麻痺(無痛)なのではなく、苦悩の先に必ず目から鱗があるからイテテテテなどと叫びながらも受け止められる…んじゃあなあい?
なんかさぁ、楽しそうじゃん?いわちゃん、喋ってるとき(まだ二回しか喋ったことないけどさ)。でも、苦痛は苦痛としてしっかりもがいていて。

麻痺とか云うな!謙遜だとしても、である。

リスペクトだろ
知的障害者だなんて「できない」存在として見るな、関わってくれるな。異文化交流、意識改革、自己の解放は人類のさらなる進化への云わば「脱皮の苦しみ」…あばんぎゃるどを堪能されたし。

うーん、わかるかなぁ。
旨く説明できないからわたしも知的障害者
意思の疏通ができていないからわたしは自閉症
だ。

先に同じく承認は求めない

寒中お見舞い申し上げました

Posted by まあまあ左脳タイプ at 2013年12月16日 15:30
まあまあ左脳タイプさん
コメントありがとうございます。
そして、普段コメントがあまり入ってこないため、コメント承認欄を確認する事を怠っていて、承認するのが遅くなってしまった事をお詫びします。

「麻痺」という言葉が妥当かどうかはわかりませんが、コメントされた事柄は、私の中ではまったくそのとおりと想います。
出会いや出来事の中で、様々な事柄に気づかされる日々。
その気づきをもって自分自身が楽になっていくという面があるからこそ、今日まで続いているのだろうと想います。

 それは、私自身お金があとからついてくるという状況があったので、自らの意思を前面に出会うことができたように想います。
 そういう経験があった上で、私も食べていかなければならない、子どもを育てなければならない。そのためにはお金も必要という状況でした。
 でも、お金が必要となった時には、すでにその事に対してもかなり自由な面があったように思います。

 しかし、自らの想いを実現していくためには、すなわち出会った人たちとこの先も共に歩んでいくためには、様々な人の手が必要になる。
 その手を求めたところで集まってきた人たちが、それを職とした時、ほんの少しの想いから飛び込み、お金を得て生業とする。
想いよりもお金やまだ見ぬ将来との兼ね合いも考える。
長い年月かけて作られてきた状況に飛び込んでみたら、その状況を理解するにも時間がかかるし、その中で自らの想いを膨らましていくことにも時間がかかる。
 「当事者と向き合う」と言葉で表現しても、何を持って「向き合う」ことになるのか?真剣に悩む人ほどつらくなっていく。
 「つらさがつらさで終わることがないように」するためには、その「つらさ」を出すところから始めなければならないと想う。出した上で、そのつらさをつらさとして終わることがないようにみんなで考える。
 私は、私の中で懸命に考えてきました。だからといってそれがそれで十分とは思わないし、この先も考え続けていく事と思っています。
 「つらい」を理由に辞めることがないようにするには、私の中にある(あった)「つらさ」とその「つらさ」にどう向き合ってきたか?について、考えていかなければならないと思うし、それを考えようとするとき、後に続く人たちの「つらさ」というものが「ある」という前提で改めて考え共にやり取りしていきたいと願ってます。
 
Posted by 岩ちゃん at 2014年01月17日 11:54
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。