とりあえず岩橋さんの「つらい考その2」から引用します。
『横田さんは、「つらさを取り除く」とか「つらさと付き合う」ことに向き合っているのだが、
私は「長時間介助」についてつらさを描いたことがない。
日々の暮らしの中で、介助が立て続けにあれば「疲れるわぁ〜」と言う事はあるし、それが「つらい」に置き換えられる面もある。でも「疲れるわぁ〜」の一言で済ませられる程度。』
確かに岩橋さんはそんな感じで、それに対して最初の頃私はものすごく戸惑いを感じてたように思います。今から思うとその戸惑い自体も私には辛くて仕方がありませんでした。私にとって介助はやはり辛かったし、当事者も辛そうに見えて仕方がなかった。それなのに岩橋さんは辛いどころかどこか楽しそう。
だから岩橋さんの文章にある「つらさは麻痺していたのかもしれない」というのはたぶん間違いではないとおもいます。私も岩橋さんのこの文章を読むまで、岩橋さんはつらさが麻痺してるなんて考えたことはありませんでした。
どうなんでしょう? 「辛いという価値基準を持ってはいけない」という危機感が岩橋さんにはずっとあったのでしょうか?
確かに「つらい」か「つらくない」かを基準に決めるとたこの木にとってはかなり不都合なことがあると思います。
普通学級はつらいから養護学校にいく。
地域はつらいから施設にいく。
自立生活はつらいから入所施設で暮らす。
「当事者のためを思うと・・・」「当事者がつらそうなので・・・」この様な意見にたいして「つらい」か「つらくない」という価値基準をたこの木がもつと致命的ですらあると私でさえそう思います。
ではなぜここにきて「つらい」ということが岩橋さんにさえ注目されることになったのでしょう。
実は今回「つらい考3」を書くにあたって今の今、全くといっていいほど自分が予期せぬ展開になってきています。こんなこと書くことはおもってもいませんでした。でも先は長いと思いますので的がはずれてしまっているかもしれまんがこのまま続けて書いてみたいとおもいます。
なぜここにきて「つらい」ということが岩橋さんにさえ注目されることになったのか?
戦後日本は高度経済成長期、バブルを経て現在に至るまで、風潮として世の中全体が「快適主義」よって貫かれてきたとおもいます。「つらい」をはじめ「汚い」など不快なことはまるで悪のように取り除かれようとされてきました。
水洗便所、エアコン、コンビニ、パソコン、原発・・・・・・・
それらはまさに私たちを快適にさせてきたかのように見えたのですが福島原発事故が象徴するようにこれまでの快適主義の成果による不都合な反作用ともいうべきものがあらわになってきました。
画一的な快適主義にかいならされてきた私たちは快適主義に疑いをもつものの、画一的な快適主義の世界から外れた不快さには全くもって無力、思考停止。
画一的な快適主義の世界から排除されようとされる当事者を排除されないために運動してきた中で、排除しようとする人たちに対して快適か不快か?つらいかつらくないか?という価値基準を持ち込むこむことは危険で、かりにその価値基準を持ち込むときも極めて慎重になったのではないでしょうか?
11月23日に岩本通信でおなじみの岩本さんが小学生の時の普通学級の担任と共に講演会がありました。そこでの内容は
養護学校はいやだから普通学級へいく。
施設なんて問題外といった感じの内容でした。
日ごろ付き合いのある岩本さんの話なのでとても面白かったです。
当事者、支援者の「つらい」「つらくない」なんていってられない時代から、当事者、介助者の「つらい」「つらくない」の話が大っぴらにできる時代になったのかもしれません。それは私にとってはとても有難いことです。
つらい、つらくない以外の強固な価値基準をもった人たちが今の若い介助者たちのつらさに耳を傾けることは今後さらに有意義になってくるのではないかとおもいます。