2014年06月09日

「重度障害者って言われると違和感バリバリ」

先日、一人暮らしをしている当事者を迎えに迎に日中活動の場に行った際、
本人とスタッフの人たちとしばしおしゃべりタイムとなった。
「支援者間の引継ぎ並びに連携」などという大仰な雰囲気ではなく、
本人の話題やそれぞれの状況の話題も含めたのんびりモードのおしゃべりタイム。

そんな中あるスタッフが、
「たこの木通信でいつも彼の事を重度障害者って書いているのはどうなんだろう?」
「バリバリ違和感抱くよね〜!」と言われた。

それを言われた私も、
「確かに、そうだよね〜。彼の周りにはいろんな人があたりまえにいて、周囲も本人も障害者って感覚さえないみたいだしね〜」と即答。

そして想い描いたことは、
「医療モデル」として彼の障害程度を見れば、確かに重度かもしれないけど、
「社会モデル」としてみたら軽度かもしれない。

すなわち、
人が好きで、争いごとが嫌いで、人付き合いが良く、人に気を使える。
普通学級で学び、都立高校を卒業し、「共に生きる」事を求めて活動してきた人たちと集う彼としては、
障害者にありがちな自分自身を否定して周囲に愛想よくするのではなく、根っから人が好きで、好きな相手にごく自然に気を使っている。

なので、彼の周囲には様々な人が集まってくる。
そのことによって、生まれる彼との関わりは、常にホンワカしている。

彼を取り巻く状況は、まさに彼の社会であり、その社会をいかに形成し、今の状況があるのかを診れば、
決して重度とはいえない。

「医療モデル」と言うものが、個人の能力に依拠して測られ、個人に対する支援のありようを考えるのに対し、
「社会モデル」と言うものは、社会の側の問題として、社会のありようを変えていく事を求める。

彼は彼の性格やこれまでくぐってきた経験を持って、彼自身も社会を変え、自らの社会を作れていると思えば、
そこから彼の障害程度を見たら結構軽度と言ってもおかしくないだろうと思ったりする。

逆に、
医療モデルによる程度判定では軽度と言っても、軽度ゆえの行動の広さからかえって様々なトラブルを起こし、起こしたトラブルから様々な制約を周囲から受け、さらにその制約に対するストレスからトラブルに発展していく当事者もいる。
そういう人は、医療モデル的には軽度であるが故に、支援を受けることはできず、常に教育や指導や果ては矯正の対象とされていく。
そういう人は、社会モデルからその程度を見れば、重度に位置し、まさに支援を必要としているように思う。

「社会モデル」と言う言葉が昨今巷で聞こえるようになってきた。
私自身専門家ではないので、その正しい定義はわからない。

ただ、巷で聞こえるようにはなっても、
当事者本人にとって必要となる支援を考える出発点は、
個人の能力を診る「医療モデル」
療育手帳にしても、年金にしても、総合支援法の支援区分にしても、知的当事者が重度訪問を利用する際に求められるアセスメントにしても、すべて個人の能力のみに依拠し判定されていく。

唯一、周囲の環境が現れるとすれば、
実際の支給決定の際に、
「家族が支援できる環境があるなら必要ない」と言うし給料抑制に使う場面だけのように思う。

そんな事を一人勝手に思いつつ、
個人の能力のみを見るのではなく、
その人が置かれている環境や周囲との関係性等も含めた障害に対する判断基準を生み出す必要があるのだろうと思うが・・・

もしそうなったとしたら、
先のような状況は非常に稀なことで、
多くの「障害者」に対して「重度」と言う判定を出さなければならなくなるように思う。
すなわち、
それだけ障害当事者と社会とを切り離してやり取りしてきた歴史があまりにも大きいから。

posted by takonoki at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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