先日開かれた「自立生活支援を考える会」で横田さんが話題提供者となり、話をしてくれたことやその後「つらい考」と題して書いたブログを読み、私も私の中にある「つらい」と言うものの中身を私なりに改めて考えなければならないと思った。
それは、横田さんは「つらさ」があることを前提としていて、その想いは今ヘルパーとして当事者達と関わる人たちにとってとても近いところにあると思ったから。
そして、私はこれまで思い描いてきた事が、どれほど現場のヘルパーの人たちからは遠いところにあったかという事を思い知らされたから。
横田さんは、「つらさを取り除く」とか「つらさと付き合う」ことに向き合っているのだが、
私は「長時間介助」についてつらさを描いたことがない。
日々の暮らしの中で、介助が立て続けにあれば「疲れるわぁ〜」と言う事はあるし、それが「つらい」に置き換えられる面もある。でも「疲れるわぁ〜」の一言で済ませられる程度。
そんな私が、介助者たちの「つらさ」に気づくはずもない。
先日の自立生活支援を考える会で考えさせられた事は、
「一旦、長時間介助はつらいもの」と立ててみると言う事。
そして、タイミングよく昨日と一昨日の2連続で長時間介助の機会がありあれこれ考えてみた。
「つらさ」を前提にしてみたとき、
実は、私の中にこの「つらさ」がないわけではないと言う事に気づく。
「つらさ」がないわけではなく、「つらさ」が麻痺しているだけかもと感じた。
私自身介助と言う現場に入って30年近く経つ。
自立生活運動を担う身体当事者の介助に入り、
昨今知的当事者達の介助に入っている。
制度が整っていない時代。
「介助に入る」=「その人と付き合う」でしかなかった。
極端な話、自分の寝床となるアパートの家賃と水光熱費とタバコ代程度の現金をもらい、
食費は、当事者分と自分の分を一緒に作り一緒に食べるのでかからないし、
衣服はいろんな人からのもらい物。
そんな生活の中で、「付き合う」ことのみを常に考えてやり取りしてきた。
なので、
正直時給で介助料がもらえるなんて夢のようだし、
「こんなんでもらって良いのだろうか?」とも考えてしまう中、
時給以上のものをあれこれ思い描き、当事者や当事者の家族とやり取りしてきた。
そして、たぶん私にも合ったであろう「つらさ」は、
それを上回る出会いや出来事の中で、様々な気づきを与えられ、当事者とともに歩む事で自らの価値観が変えられ、そのことによって自らの暮らしも解放されていく印象の中で暮らしてきた。
すなわち、
当事者との関わりの中で「つらさ」がなくなったのではなく、
「つらさ」が「麻痺」しているといった方が寄り近いように思う。
なくなったのではなく麻痺しているならば、
もし、私自身がこの先新たな出会いを求めるエネルギーや気づける感性が落ちたときには、
今、ヘルパーとして関わる人たち以上に「つらい」ものになってしまうかもしれないと感じた。
今、私とヘルパーや支援を職として関わる人たちとの違いは、
職以外のかかわりがどれほどある金井の違いだと思う。
関わるためには長い年月が必要だけど、
そこにある「つらさ」というものはお互いに共有できる事柄なんだろうと思う。
そして、そこを明らかにするには私以上に横田さんや西山さんたちの目線や各々が担うヘルパーたちの目線が不可欠であり、
一人ひとりが、もっと語ってよい状況を生み出すためには、
「介助はつらいばかりではないでしょ」と私のような立場の人たちが語るのではなく、
「介助はつらいよね」と言う前提から始めなければと思う。
でも、
こんな事を書いていると聞こえてくるのは、
「お前達以上に当事者の方がつらいんだ」と言う声
それは、先日の会で横田さんも語っていて、
その声故に介助者は何も言えなくなってしまうと言う事。
又、
「介助はつらい」と介助者が口にすることで、当事者達は何もいえなくなってしまうから、言うに言えない。と言う点。
前者は、まだ当事者とのやり取りの中でお互いを出し合い生み出したり考えつながっていく事は可能。
会の中でも、「私達は当事者と喧嘩しつつ進んできた」と言う話があったが、それがまさにそうだと思う。
しかし、難儀なのは後者の方。
「何も言えなくなる」と言ってくれるならまだしも、
言われないままに過ぎていくことに気づくと、何をどのようにしてよいか解らなくなり、
結局「つらい」と言う事は「口が裂けても言えない」とヘルパーが抱え込んでしまう。
又、当事者者のつらさをまったく感じないままに、勝手な介助を担い続けていくかもしれない。
そんなところからも、
「つらさ」が個々のヘルパーの中に留まり、
それに耐え切れなくなってしまう者は辞めていく。
又は、麻痺させることのできる者のみが長年にない続けられると言うのもおかしなことだと思う。
なので、
「つらさ」があるという前提で改めて様々な事を考えていかなければならないと思う。
そして、
その前提に立ち、介助者の「つらさ」が常に当事者にのみ転嫁されていく事を課題としなければならない。
たぶん、私が長年になってきたことは、「当事者に転嫁しない」と言う事であって、「つらさ」を抱くことの中身は、ただどこかに仕舞い込んでいただけのように思う。
そして、様々な制度によって当事者の暮らしが成り立つ昨今。
「付き合いの延長線上」だけでは、見えない様々な課題がさらに膨らんでいくと思う。
特に、知的当事者の重度訪問介護は、
長時間を前提とする制度であるが、
長時間、介助者と当事者が密室状態となる中、
介助者のつらさを当事者に転嫁されてしまっては、
密室の危険性もあれば、暮らし全体の中で介助者や支援者達に管理されていく制度となってしまうように思う。
なので、
とりあえずは、
「つらさ」を様々な人たちともっと気軽に語れる状況を生み出し、実際にあるものを見えないところで特定の人に転嫁されない状況を生み出さなければと思っているところ。