2016年01月26日

重度訪問介護従事者養成研修(行動障害支援過程)募集案内

来る2月6日(土)7日(日)に開かれる重度訪問介護の応募期間が始まりました。

初めての資格研修
初めての多摩市との共催
初めての有償企画
初めての一般公募
初めての・・・

と、
初めてづくしの研修です。
でもその中身は、
長年考えてきたこと
長年取り組んできたこと
長年積み重ねてきた事
長年こだわり続けてきた地域生活支援
長年こだわり続けてきた支援の立ち位置
長年・・・

「強度行動障害支援者研修」の基礎研修として位置づける厚労省。
「行動援護従業者養成研修」と中身がまるで同じで良いの?と思う私たち。

もし、あなたが専門的な知識を身につけたいと思うのであれば、
ぜひ、他所の研修を受けることをお勧めします。

もし、あなたが「強度行動障害」があっても地域で暮らすことを願い、
その支援に関わっていきたいと願うならば、
ぜひ、今回の研修に応募してほしいと願います。

定員が20名ということで、
定員を超えた場合、
地元多摩市で活動する人たちを優先します。
また、無資格者を優先します。
そのことで、研修後もそれぞれの現場から、
ともに考え・ともに悩み・ともに関わり続けたいと願っています。

とはいうものの、
10日間の応募期間で、果たして20名もの人が集まるのだろうか?
昨今、遅々とした歩みであっても知的当事者の自立生活支援に関心を寄せる人が増えている中で、
改めてともに考えたい人の参加も歓迎します!

研修に参加したいと思う方は、まずは申し込んでいただければと思います。

※万一定員を超えた場合は、2月2日までに連絡します。

2015年度重度訪問介護研修チラシ
<関連記事>
たこの木通信338号 当事者支援の制度をめざして第92回 重訪研修を行います.pdf
たこの木通信339号 当事者支援の制度をめざして第93回 重訪研修を行います その2.pdf


ラベル:重度訪問介護
posted by takonoki at 14:55| Comment(0) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月09日

「重度障害者って言われると違和感バリバリ」

先日、一人暮らしをしている当事者を迎えに迎に日中活動の場に行った際、
本人とスタッフの人たちとしばしおしゃべりタイムとなった。
「支援者間の引継ぎ並びに連携」などという大仰な雰囲気ではなく、
本人の話題やそれぞれの状況の話題も含めたのんびりモードのおしゃべりタイム。

そんな中あるスタッフが、
「たこの木通信でいつも彼の事を重度障害者って書いているのはどうなんだろう?」
「バリバリ違和感抱くよね〜!」と言われた。

それを言われた私も、
「確かに、そうだよね〜。彼の周りにはいろんな人があたりまえにいて、周囲も本人も障害者って感覚さえないみたいだしね〜」と即答。

そして想い描いたことは、
「医療モデル」として彼の障害程度を見れば、確かに重度かもしれないけど、
「社会モデル」としてみたら軽度かもしれない。

すなわち、
人が好きで、争いごとが嫌いで、人付き合いが良く、人に気を使える。
普通学級で学び、都立高校を卒業し、「共に生きる」事を求めて活動してきた人たちと集う彼としては、
障害者にありがちな自分自身を否定して周囲に愛想よくするのではなく、根っから人が好きで、好きな相手にごく自然に気を使っている。

なので、彼の周囲には様々な人が集まってくる。
そのことによって、生まれる彼との関わりは、常にホンワカしている。

彼を取り巻く状況は、まさに彼の社会であり、その社会をいかに形成し、今の状況があるのかを診れば、
決して重度とはいえない。

「医療モデル」と言うものが、個人の能力に依拠して測られ、個人に対する支援のありようを考えるのに対し、
「社会モデル」と言うものは、社会の側の問題として、社会のありようを変えていく事を求める。

彼は彼の性格やこれまでくぐってきた経験を持って、彼自身も社会を変え、自らの社会を作れていると思えば、
そこから彼の障害程度を見たら結構軽度と言ってもおかしくないだろうと思ったりする。

逆に、
医療モデルによる程度判定では軽度と言っても、軽度ゆえの行動の広さからかえって様々なトラブルを起こし、起こしたトラブルから様々な制約を周囲から受け、さらにその制約に対するストレスからトラブルに発展していく当事者もいる。
そういう人は、医療モデル的には軽度であるが故に、支援を受けることはできず、常に教育や指導や果ては矯正の対象とされていく。
そういう人は、社会モデルからその程度を見れば、重度に位置し、まさに支援を必要としているように思う。

「社会モデル」と言う言葉が昨今巷で聞こえるようになってきた。
私自身専門家ではないので、その正しい定義はわからない。

ただ、巷で聞こえるようにはなっても、
当事者本人にとって必要となる支援を考える出発点は、
個人の能力を診る「医療モデル」
療育手帳にしても、年金にしても、総合支援法の支援区分にしても、知的当事者が重度訪問を利用する際に求められるアセスメントにしても、すべて個人の能力のみに依拠し判定されていく。

唯一、周囲の環境が現れるとすれば、
実際の支給決定の際に、
「家族が支援できる環境があるなら必要ない」と言うし給料抑制に使う場面だけのように思う。

そんな事を一人勝手に思いつつ、
個人の能力のみを見るのではなく、
その人が置かれている環境や周囲との関係性等も含めた障害に対する判断基準を生み出す必要があるのだろうと思うが・・・

もしそうなったとしたら、
先のような状況は非常に稀なことで、
多くの「障害者」に対して「重度」と言う判定を出さなければならなくなるように思う。
すなわち、
それだけ障害当事者と社会とを切り離してやり取りしてきた歴史があまりにも大きいから。

posted by takonoki at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月12日

つらい考 7 

たこの木クラブのブログのお引越しとリニューアル。
西山さんが頑張ってくれました。

「それに応えてしばしば更新しなければ」と思うけど日々様々な事が巻き起こるたこの木なのでたぶんムリだろうと想いつつ、是非皆さんリアルたこの木に遊びに来て下さい。

いつの間にか横田さんとの交換ブログになっている「つらい考」
とても大切なことなんだけど、そればっかりでもないし、このタイトルの落とし所がどこにあるだろうかと想いつつ、とりあえず私自身の落とし所として書いてみたいと想います。
(最終的な落とし所は横田さんの方にお任せするので、横田さんよろしくです)

まず、なぜ「つらい考」なんだろうか?
私の場合も「つらい」場面はあるのだが、それを上回るものがあるから普段考える事はない。
ただ、私自身にもあるであろう「つらい」を考えた時、それがどこか日々の活動の中で「麻痺させている」という事にも気づいた。

気づいてみれば、将来自分に襲ってくるかもしれない事柄について、
事前に考えておかなければと想うめんはある。
でも、それ以上に今後(将来)に向け考えなければならない事はたくさんあるので、現時点で私自身が描く「つらい」について考える事はほとんどない。

では、なぜ「つらい考」なのか?
たぶんそれは「つらい」と言う人がいるから考えなければならないと想う。
その人の「つらさ」に自分がいかに関わっているか(すなわち、私自身が相手をつらくさせている)について、
避けて通るのではなく向き合わなければならないと描いている。

私は、このテーマが出された以降、
ブログやたこの木通信や先日の「自立生活支援を考える会」においても、
相手は何を「つらい」とし、それも含めてこの先をともに担っていきたいと願う。
そのために、いろんな人の「つらい」を受け止めなければと想っている。

それは、単に支援者のと言うよりも私自身と関わりのあるすべての人に対して同様にありたいと思う。
ただ、それを言ってしまっては見えてこないものもあるからとりあえずは「支援者」と言う枠組みの中で考えてみたいと思う。

そもそもは、「支援」と言う概念さえない頃から「当事者(と言う概念もなく)」たちと関わり、これまでをつくってきた人たちにとっては、あまり意識の中にない事柄かもしれない。
もしあったならここまで続いていないかもしれない。
何をするにしても、当事者たちとともに取り組んできたし「お前も俺も」と呼べる関係の中でここまでやってきた。

しかし、ある程度枠組みができた中で「制度の担い手」や「介助者」や「支援者」と言った枠に入り、それを生業とする人たちは、枠(制度等)をつくってきた者とは違う想いや発想があるのだろうと思う。

その辺りを今後もあれこれ聞いてみたいと想っている。

で、
その辺りを書き始めるとまとめるどころかさらに拡大されるし、
拡大し続けたとしても、個々置かれている状況が違う中で、
終わりのないテーマでもあるから、とりあえず私の方はこの件から離れたいと思う。
(横田さん!後はよろしく)

ただ、ブログ上ではおしまいにしても現場においては考え続ける必要があると想っている。

そのためには、「つらい」と言う話がもっともっと「楽しい」と言う話と同等に語られる状況が必要なんだと想っている。
「楽しい」話は、周囲も聞いていて楽しい。
「つらい」話は、周囲も聞いていてつらい。
なので、周囲は「つらい」話を聞きたくない。
よって「つらさ」はそれを描く個人の中に仕舞い込まれる。

「楽しい」話をたこの木通信に書けば、読者は楽しくなる。
当事者が地域で暮らす上での「課題」は、読者と共有する事はできる。
でも、
「つらい」話を通信に書けば、
「そのような想いにいる人が介助しているのか?」とマイナスイメージだし、
「当事者の方がもっとつらい」と言う比較の話になったり、
そもそも、「つらい」の原因を招いた人が責められたり、書いた人に釈明を求められたりする場合もある。
すると、
会報等公の場に「つらい」は書けなくなるし、
書けなくなる事で「本当は私も想っている」人たちと出会えなくなる。

そんな事を考えてみれば、
「つらい」は「つらい」として想い描く人が語り、
語らえた側も「つらい」を「つらい」として受け止め、
ともにその先をめざしていきたいと願う。

とは言っても、
私自身もいっぱいいっぱいの状況の時に「つらい」を語られると受け止められない。
受け止められない中で、「つらいを語ってはいけない」と相手に思わせてしまっているかもしれない。

「つらい」話を語る人と聞く人との関係の中に収める事もこれまたつらい話しなので、
ぜひぜひ、いろんなところでいろんな人と「楽しい」と同様の「取扱い」ができるようにしたいとも願う。
posted by takonoki at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

「つらい」考 その2

先日開かれた「自立生活支援を考える会」で横田さんが話題提供者となり、話をしてくれたことやその後「つらい考」と題して書いたブログを読み、私も私の中にある「つらい」と言うものの中身を私なりに改めて考えなければならないと思った。

それは、横田さんは「つらさ」があることを前提としていて、その想いは今ヘルパーとして当事者達と関わる人たちにとってとても近いところにあると思ったから。

そして、私はこれまで思い描いてきた事が、どれほど現場のヘルパーの人たちからは遠いところにあったかという事を思い知らされたから。

横田さんは、「つらさを取り除く」とか「つらさと付き合う」ことに向き合っているのだが、
私は「長時間介助」についてつらさを描いたことがない。
日々の暮らしの中で、介助が立て続けにあれば「疲れるわぁ〜」と言う事はあるし、それが「つらい」に置き換えられる面もある。でも「疲れるわぁ〜」の一言で済ませられる程度。

そんな私が、介助者たちの「つらさ」に気づくはずもない。

先日の自立生活支援を考える会で考えさせられた事は、
「一旦、長時間介助はつらいもの」と立ててみると言う事。
そして、タイミングよく昨日と一昨日の2連続で長時間介助の機会がありあれこれ考えてみた。

「つらさ」を前提にしてみたとき、
実は、私の中にこの「つらさ」がないわけではないと言う事に気づく。
「つらさ」がないわけではなく、「つらさ」が麻痺しているだけかもと感じた。

私自身介助と言う現場に入って30年近く経つ。
自立生活運動を担う身体当事者の介助に入り、
昨今知的当事者達の介助に入っている。

制度が整っていない時代。
「介助に入る」=「その人と付き合う」でしかなかった。
極端な話、自分の寝床となるアパートの家賃と水光熱費とタバコ代程度の現金をもらい、
食費は、当事者分と自分の分を一緒に作り一緒に食べるのでかからないし、
衣服はいろんな人からのもらい物。
そんな生活の中で、「付き合う」ことのみを常に考えてやり取りしてきた。

なので、
正直時給で介助料がもらえるなんて夢のようだし、
「こんなんでもらって良いのだろうか?」とも考えてしまう中、
時給以上のものをあれこれ思い描き、当事者や当事者の家族とやり取りしてきた。

そして、たぶん私にも合ったであろう「つらさ」は、
それを上回る出会いや出来事の中で、様々な気づきを与えられ、当事者とともに歩む事で自らの価値観が変えられ、そのことによって自らの暮らしも解放されていく印象の中で暮らしてきた。

すなわち、
当事者との関わりの中で「つらさ」がなくなったのではなく、
「つらさ」が「麻痺」しているといった方が寄り近いように思う。

なくなったのではなく麻痺しているならば、
もし、私自身がこの先新たな出会いを求めるエネルギーや気づける感性が落ちたときには、
今、ヘルパーとして関わる人たち以上に「つらい」ものになってしまうかもしれないと感じた。

今、私とヘルパーや支援を職として関わる人たちとの違いは、
職以外のかかわりがどれほどある金井の違いだと思う。

関わるためには長い年月が必要だけど、
そこにある「つらさ」というものはお互いに共有できる事柄なんだろうと思う。
そして、そこを明らかにするには私以上に横田さんや西山さんたちの目線や各々が担うヘルパーたちの目線が不可欠であり、
一人ひとりが、もっと語ってよい状況を生み出すためには、
「介助はつらいばかりではないでしょ」と私のような立場の人たちが語るのではなく、
「介助はつらいよね」と言う前提から始めなければと思う。

でも、
こんな事を書いていると聞こえてくるのは、
「お前達以上に当事者の方がつらいんだ」と言う声
それは、先日の会で横田さんも語っていて、
その声故に介助者は何も言えなくなってしまうと言う事。
又、
「介助はつらい」と介助者が口にすることで、当事者達は何もいえなくなってしまうから、言うに言えない。と言う点。
前者は、まだ当事者とのやり取りの中でお互いを出し合い生み出したり考えつながっていく事は可能。
会の中でも、「私達は当事者と喧嘩しつつ進んできた」と言う話があったが、それがまさにそうだと思う。
しかし、難儀なのは後者の方。
「何も言えなくなる」と言ってくれるならまだしも、
言われないままに過ぎていくことに気づくと、何をどのようにしてよいか解らなくなり、
結局「つらい」と言う事は「口が裂けても言えない」とヘルパーが抱え込んでしまう。
又、当事者者のつらさをまったく感じないままに、勝手な介助を担い続けていくかもしれない。

そんなところからも、
「つらさ」が個々のヘルパーの中に留まり、
それに耐え切れなくなってしまう者は辞めていく。

又は、麻痺させることのできる者のみが長年にない続けられると言うのもおかしなことだと思う。

なので、
「つらさ」があるという前提で改めて様々な事を考えていかなければならないと思う。
そして、
その前提に立ち、介助者の「つらさ」が常に当事者にのみ転嫁されていく事を課題としなければならない。

たぶん、私が長年になってきたことは、「当事者に転嫁しない」と言う事であって、「つらさ」を抱くことの中身は、ただどこかに仕舞い込んでいただけのように思う。

そして、様々な制度によって当事者の暮らしが成り立つ昨今。
「付き合いの延長線上」だけでは、見えない様々な課題がさらに膨らんでいくと思う。

特に、知的当事者の重度訪問介護は、
長時間を前提とする制度であるが、
長時間、介助者と当事者が密室状態となる中、
介助者のつらさを当事者に転嫁されてしまっては、
密室の危険性もあれば、暮らし全体の中で介助者や支援者達に管理されていく制度となってしまうように思う。

なので、
とりあえずは、
「つらさ」を様々な人たちともっと気軽に語れる状況を生み出し、実際にあるものを見えないところで特定の人に転嫁されない状況を生み出さなければと思っているところ。
posted by takonoki at 10:42| Comment(2) | TrackBack(0) | @岩橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする